高校へ進学してからの僕は、良くも悪くも先生との関わりが薄かった。勉強に関して言えば、美月の方がよっぽどお世話になっているし。それほど手間をかけている、と自覚がある。
ところが、4月中旬の週末ムードが漂うある金曜日のこと。
放課後に僕は、2年A組の担任を務める女性教諭に進路指導室へ呼び出されてしまった。
いったい何の用件だろうか……と恐る恐る扉をノックして入室し、促されるままに面談机の片側の席につく。
すると、遅れて対面に座った女性教諭――ジャージ姿の石塚先生が、「どうして呼ばれたかわかっているな?」と本題を切り出す。
「あ、あの、心当たりがないんですけど……」
「はぁ……白石兎和、キミの活躍は聞いている。栄成サッカー部のエースとして、ずいぶんと期待されているみたいだな。さぞや素晴らしい選手なんだろう。だがな、これは流石にまかりならんぞ」
ドンッ、と。
石塚先生はひとつため息を吐き、流れるようにお説教の文言を唱えたあと、机にA4サイズのプリントを叩きつけた。
僕はビクッと跳ねてから、さっと内容に目を走らせる。
あ、これ……この前提出した進路希望調査表だ。
「こ、このプリントがいったい……?」
「本気で言ってるのか? 自分がなんと書いたか、読み上げてみなさい」
「あ、はい……第一希望、Jリーガー。第二希望、Jリーガー。第三希望、Jリーガー……」
「幼稚園生の将来の夢アンケートかな?」
ご要望に応え、調査票を手に取って記載した内容を口にすれば、石塚先生の冷たいツッコミが飛んできた。ジト目を添えて。
幼稚園生……僕としてはいたって真面目に解答したつもりだったが、どうやらお気に召さなかったらしい。
「なあ、白石兎和……キミの成績は学年でも上位に入る。この調子を維持すれば、難関大学の合格を勝ち取れる。だから、真剣に進路を考えなさい」
ああ、なるほど。僕がテキトウな進路を書いて提出したと思っているようだ。
無理もない。日本サッカー協会に選手登録している人数から算出した場合、プロサッカー選手になれる確率は脅威の『0.2パーセント前後』と言われている。美月の受け売りだが。
先生からしてみれば、『東大を目指しています』とでも言われたほうがまだ信憑性があるに違いない。
だが、生憎と僕は、その信じられないほど狭き門を本気で潜ろうとしている。だからこそ、不退転のJリーガー三連発なのである。
「つまり、キミは大真面目というわけか……大会でも結果を残しているようだし、自信もあるのだろう。でもな、私は教師だ。不確かな道へ進もうとしている生徒を黙って見過ごすわけにはいかんのだ」
ダメだった場合はどうするつもりか。サッカー浪人しながらプロを目指すのか。不慮の怪我で断念する恐れもある。大学を経てプロを目指すのでも遅くはないんじゃないか――石塚先生はいくつもの懸念を挙げ、僕に冷静な判断を促してくる。
ここまでの話で、十分以上に理解できた。
この人、すごくいい先生なんだなあ。
サッカーのことをわからないなりに、色々と調べたうえでこの場をセッティングしてくれている。きっと、本気で生徒の将来を心配しているのだ――けれど、気持ちは変わらない。
「ありがとうございます、先生。でも僕は、やっぱりJリーガー志望の一本でいきます」
「……話を聞け、白石兎和。保険を作っておけ、私はそう言っているんだ」
「確かに、そっちの方が一般的で賢いですよね……でも、僕は心が弱いから。他の道があったら、きっと気持ちが緩んでしまうと思うんです」
絶対に叶えたい夢がある。何より、夢への道を隣で歩んでくれる人ができた。だから、他に選択肢なんていらない。全身全霊、一意専心だ。
両親も心配はしていたが、『信じた道を進め』と背中を押してくれている。もちろん、いつでも相談に乗るとも言ってくれている。あと、勉強はちゃんとしろ、とも。
「キミは……まるで青春の権化みたいな生徒だな。私のようなアラサーのオバサンには眩しくて仕方がないよ」
「何を言ってるんですか。先生だってまだまだ若い……じゃないですか!」
「妙な間があったな……まあ、今回はキミの意見を尊重しよう。だが、私は諦めたわけじゃないからな。以後、定期的に面談を行う。では、帰っていいぞ」
ひとまずは納得してくれたらしい。しかも、青春の権化って……なんかめっちゃ褒められた!
僕は「失礼しました」と別れの言葉を告げ、ルンルン気分で2年A組の教室へ戻る。バッグを取って、いったん帰宅する予定だ。
本日、トップチームは部活オフ。明日の土曜、ついに『関東サッカー大会・東京予選』の初戦が行われる。それを踏まえ、休養日に設定されていた。
残念ながらトラウマ克服トレーニングもナシなので、僕は久々に時間を持て余していた。
頭の中でヒマつぶしを探しつつ、到着した教室の扉を開く――次の瞬間、思いもよらぬ人物の姿が目に飛び込んできた。
「あれ、美月」
「あら、兎和くん」
声に反応し、美月がこちらに顔を向ける。
目が合う。長い黒髪がサラリと穏やかに流れ、差し込む夕茜に染まって溶け混ざる。青いカーディガンが、淡く過ぎ去る春の気配を漂わせる。
室内にいるのは彼女一人だけ。僕が足を踏み入れ、これで二人きり。そのまま自分の席に腰を落ち着け、「何してんの?」と笑顔で話を始めた。
「実は、進路希望調査票を出しそびれていたの……納得いく答えが見つからなくて」
「おー、偶然。僕も、進路希望の件で石塚先生に呼び出されてたんだ」
「何か問題でもあったの?」
「第一~第三希望まで、全部に『Jリーガー』って書いて提出したら、真剣に考えろって怒られた」
僕は事情を説明すると、美月は「もうおバカさんなんだから!」と笑い声を上げた。
続けて、先生が安心するような答えを混ぜておくのが普通なのだと教えてくれた。結果はどうあれ、進学の意思を見せておくのが丸いのだとか。
きっと美月も大学に行くのだろう。一瞬、同じキャンパスを歩けたら、なんて思いがよぎった。それはそれで、めちゃくちゃ楽しいだろうな。
やっぱり僕も大学に……なんて言いかけそうになったあたり、『Jリーガー三連発』で正解だった。
「でも、そういう美月だってテキトウに済ませてないじゃん。今も真面目に悩んでるんでしょ?」
「まあね。いい機会だから真剣に進路を考えてみたんだけど、自分が何をやりたいのかわからなくなっちゃって。『私自身の将来の夢って何?』って感じで今は迷走中」
「意外だな。美月は何でもできそうだし、とっくに進むべき道を見つけてると思ってた」
「うーん……私って何でもできるけど、ただ何でもできるだけなのよねぇ。だから、将来って言われても困っちゃうのよ」
将来か……確かに難しい問題だ。
美月のおかげで、僕は目指す道を明確に定められた。しかし普通は、限られた時間の中でとことん悩み抜いてようやく見つかる類いのものなのだろう。
昔のままの自分なら一生迷っていたに違いない……あ、そうだ。プロサッカー選手の他に、幼い頃から思い描いていた将来のビジョンがひとつだけあった。
いつか、大型犬を飼いたいんだ。
ご近所さんが昔、ゴールデンレトリバーを飼っていたのだが、妹の兎唯(うい)とよく撫でさせてもらっていた。以来、僕は大型犬がたまらなく好きになった。
それで、大人になったら白い家を建ててさ。もちろん芝生の庭もあって、ゴールデンレトリバーが楽しそうに駆け回る……ヤバイ、なんてハッピーな未来なのだ。うん、やっぱりいいね。
「……将来は大きな犬を飼おう」
「それ、私へのプロポーズ?」
「は……? え、いやっ!? ちょ、ちょっと考え事してた!」
「ふふ、冗談よ。でも、素敵な将来ね。その頃には、きっと兎和くんはJリーガーになっているわ」
冗談、素敵な将来……思考がまとまらず、美月の言葉だけが空回りしている。
ハッピーな妄想のせいで、うっかり変なことを口走ってしまった。そのせいで僕の頭は完全にパニックだ。
「あ、そうだ。次回の青春スペシャルイベントなんだけど、開催は来月頭あたりでもいい?」
「え……あ、うん」
「遅くなっちゃってごめんね。私と兎和くんのスケジュールがうまく合わなそうなのよ」
残念だけど、美月も忙しいのだから仕方ない。そのうえ、こっちはスケジュールを管理してもらっている立場だから文句なんてあるはずもない……少しショックな話だったせいか、逆に冷静さを取り戻してきたな。
「とりあえず、兎和くんは明日の試合頑張ってね。もちろん私も応援に行くから」
「ありがとう。めっちゃ頑張るし、頼もしいよ」
できれば快勝を収め、予選突破に向けて弾みをつけたいところだ。なので、美月のサポートは本当にありがたい。
そういえば、トーナメント表にちょっと気になる名前があったんだよな。出場校の都合で抽選がズレ込んでいて、ようやく出揃ったのだが……とにかく、トラブルが起きないといいんだけど。
それはさておき、僕たちは引き続きのんびり雑談を楽しんだ。
美月は結局、進路希望については家に持ち帰ることにしたらしい。一緒に学校を後にするときには、ずいぶんスッキリした顔をしていたのが印象的だった。