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第16話 偶像視の終わり



 ドクンと、心臓が重々しく脈打った。

 脳内で何度も繰り返し響くダリアンの発言に気をとられ、気張っていた足の力が抜けていってしまう。


 立て直そうとしてみたところで、無駄な足掻きに終わった。


「わっ!」


 シャノンは勢いよく転倒する。ほぼ同時に、少し隙間ができていたルロウの部屋の扉が完全に開け放たれた。


「シャノン……」


 声が上から降ってきて、全身が強ばってしまう。

 聞き耳を立てていたことの罪深さと、それがバレてしまった緊迫感に苛まれながら、シャノンは目線を上げていく。


 関心の薄い表情のルロウと、どうしてここにと言いたげなダリアンがこちらを見下ろしていた。


「すみません……わたし、なんだか嫌な感じがして、ここまで来てしまって」


 曖昧な説明しかできない自分を叱咤したくて仕方がなかったが、二人の反応はシャノンの言葉を疑ってはいないようだった。


「……はあ。いつまでそうしているんだ。ほら、立ちなさい」

「は、すっかり保護者だな」


 ダリアンが床に蹲るシャノンに手を貸すと、すぐにルロウが揶揄いを入れてくる。


 立たされたシャノンは、改めてルロウに目を向けた。ぱちぱちと瞬きを挟んで、そのなんとも言いがたい違和感に顔色を変える。


「ルロウ……?」


 なぜだろう。佇まいや浮かべる表情はいつも通りであるはずなのに、なにかが違う。どうしても引っかかる。

 服装が西華国の寝衣で、初めて見るからだろうか。日中身にまとっている華衣よりも簡素な彩りだが、その分滑らかな光沢があり触れると気持ちよさそうだ。


(違う、服装、じゃない。この感じ、ああ、そうだ――教会の、)


「ルロウ、苦しいですか……?」

「――――」


 シャノンの心配そうな声に、動揺を見せたことがないルロウの瞳が、ほんのわずかに反応した。




 ***




 クア教国の教会には、毎日のように民が集まる。

 聖女の務めは、教国民を支える光として寄り添うこと。


 癒しの力は、体の傷だけではなく、心の傷や痛みにも効果があった。精神に不安を抱える者、心的外傷に苦しめられて昼も夜も怯え続ける者。

 始祖である大聖女の眷属として、そんな民衆を救済することが、世の不浄を清めることが、聖女の責務だった。


 そして、聖女は不浄を感じとることができる。

 傷から発生するもの、体の不調から発生するもの、精神の病から発生するもの、クロバナの毒素から発生するもの。


 不浄はどんな生き物の中にも存在している。

 赤子にも、幼子にも、動物にも、植物にも。

 クロバナの毒素も言ってしまえば不浄なものである。毒素を除き、それらを浄化できるのが聖女だ。


 癒しの力を欲するのは、その不浄を異常に抱え込んでしまう人に多かった。




(わたし、いままでどうして……)


 ルロウには、教会に訪れる信者が抱える不浄と、類似するものを感じる。

 これは、凝縮された毒素の渦だ。

 ヴァレンティーノ家当主であるダリアンよりも遥かに膨大な毒素。おそらくこれまでにルロウが吸収してきた禍々しい毒素を、シャノンには凄絶な不浄として感知することができていた。


「――さすがは、聖女。仮初に魔力を覆っていても、ここまでくると感じとれてしまうようだ」


 シャノンは絶句する。

 つまりルロウは、膨大に吸収した毒素から発生する不浄を、悟られないように魔力でコントロールしていたということだ。


「どうしてルロウは、笑っていられるんですか……? そんな、そんな状態で……」

「状態?」


 ルロウはあっけらかんとした態度で腕を組むが、シャノンはひどく慌てた様子で一歩前に出る。


「信者の方にいました。不浄に取り憑かれて、錯乱して暴れ回っていた人が。ルロウから感じるのは、それとは比べ物にならないくらい――」


 もはや廃人の領域だ。

 それこそ、いつ死んでもおかしくない。

 廊下で聞いたダリアンの言葉が、ここへきて現実味を帯びてくる。


「おれはどこか、おかしいか?」


 すでに確信を持っているのに、あえて尋ねてくるところが彼らしくもあり、自分のことですら関心を持たない素振りに不安が過ぎる。

 ルロウは蒼い顔をしているシャノンを愉快そうに眺めていた。まるで、他人事のように。


「当主様……だから、ルロウの浄化を最優先にと言っていたんですね」


 すべてが腑に落ちる。

 ダリアンが自分ではなく、ルロウを先にと言っていた理由が。


「――わたしに、浄化をさせてください」

「必要ない」


 ルロウは鋭く瞳を細めると、拒絶の如く言い返した。


「どうして、ですか? だって、このままだと」

「苦しみに苛まれて、死ぬ、だけだろう?」


 シャノンには意味がわからなかった。

 なぜルロウは、自分の死を想像して嬉しそうにしているのだろう。


「死んでもいいと、そう言っているようにしか聞こえないです」

「聖女としては遺憾だろうが、仕方がないことだ。闇使いが毒素を吸収し続ければ、楽に死ぬことはできない。おれの死も、これまで数多の犠牲となった命のひとつに変わりない」


 闇使いが吸収した毒素を体内に留めておく量には、個人差がある。

 ヴァレンティーノ家次期当主と言われるルロウならば、19という年齢で許容を超えることはまずありえない。

 二十代後半のダリアンがいまも当主を務めるように、通常は吸収量に気を遣いながら取り込んでいくからである。


 ルロウがここまでになってしまっているのは、故意でそうなるようにおこなっているからだ。


「どうして、そこまで……」

「民の救済者である聖女とは思えぬ発言だ。毒素で苦しむ者を、少しでも減らそうとした結果だろう?」

「……」


 うそだ。本心ではないことぐらいシャノンにもわかる。

 無言のままじっと見つめる。大きな瞳を開いて、真っ直ぐと。

 本意を知るまで動かない。言わずとも感じられる意思の固さに、ルロウは興が削がれた様子で呟いた。


「死んだように生き続けるほどの意味が、ないからだ」

「意味がない……?」


 次から次へ、疑問が出てくる。

 どうしてそう思うのか、なにがルロウをそう思わせているのか。


 シャノンはハッとした。

 自分にもあったじゃないか。

 いっそこのまま死ねたらどれだけいいだろうと、死に縋ってしまったことが。


 もしも、ルロウの中にシャノンと同じような心境があるのだとしたら。


(……どうしてわたし、気づこうとしなかったの。ルロウは、はじめてわたしを救ってくれた人で、まぶしくて。勝手に――していたんだ)


 確信に変わった、その瞬間だった。

 激痛が、刻印から伝わってきたのは。


「いっ……!」


 チリチリとした熱が首裏から感じる。

 次第に全身へ痛みを伴い始めると、シャノンの口端から耐え忍んで出た呻き声があがった。


(なに、これ。頭がくらくらする)


「シャノン、どうした!?」

「だ、大丈夫です」


 シャノンの上体が頼りなく揺れると、ダリアンは支えに入ろうとして手を伸ばしたが、やんわりと断った。

 痛み苦しむ姿のシャノンを、ルロウも訝しげに見つめていた。


 首裏の刻印を手で押え、額に脂汗を滲ませながら、シャノンはルロウを目視する。


 ぱちりと、乾いた瞳を十分に潤わせて。

 目の前のその人を、深く認識するように。


(ああ、ほら。やっぱり違う)


「ルロウは、神様でも、聖者様でもなくて、みんなと同じ、人、なのに」

「…………は?」


 素っ頓狂な声は、ルロウから出たものだった。

 同じく少し後ろに控えていたダリアンからも「何を言っているんだ」という視線が送られてくる。


 しかし、シャノンは至って真面目だった。




 ――大丈夫、祈りは必ず、いつか救いが、信じないと、祈るの、救いが、救い、救いをください、たすけて、おねがい、もう痛いのはいや、くるしい、痛い、痛い、苦しい、たすけて、救いを、救いを、救いを、救いを、救いを。


 ――神、様?


 あの日、あのとき。

 心身ともに限界を迎えたシャノンは、救いを求めていた。


 大聖女に祈ったけれど、何も変わらなかった。

 救ってくれたのは、闇の中から颯爽と現れた一人の青年。


 信仰を重んじる環境下に置かれたシャノンに思考は、その瞬間、ルロウを、これまで絶対的な存在だと信じてきた大聖女と同じような存在だと、そう捉えてしまったのだ。


 そして首裏にある刻印の激痛と共に、何重にも編み込まれたようにあった枷が解かれ、本来のシャノンを取り戻しはじめていた。




 凝り固まった思考が晴れるように、シャノンの瞳に映る彼は、自分と変わらないひとりの人間になった。




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