身支度を整えてもらったシャノンは、今朝ダリアンと話していたことを改めて考えた。
(洗脳、だったのかな)
首裏をそっと擦ると、ざらざらとした窪みになっているのがわかる。
元々、刻印の表面は肌と一体化するように滑らかだった。
それがいつの間にか……というより昨晩いきなりジリジリと焼けて、傷跡みたいになってしまったのだ。
刻印は聖女の証。それだけは理解している。逆を言えば、シャノンはそれ以上のことを教えられていない。そのことに大して疑問にも感じていなかった。
(だけどそれって、
まるで意図的に消し去られてしまったように、シャノンが思い浮かべられる記憶は全部つぎはぎだらけだ。
孤児院での日々の思い出も、目覚めた時のわずかなものだけ。
知らぬ間に多くのものが欠けていたということを、シャノンは知った。
(……とりあえず、ルロウのところに行かないと)
わからないことばかりに時間を消費しては勿体ない。
それよりも、いまはルロウのことが気がかりだ。
昨晩はシャノンの様子がおかしくなったこともあり、中途半端なところで部屋を追い出されてしまった。
どんなに平静を装い、魔力で覆い隠していたとしても、ルロウの吸収した毒素は不浄の気配を放ち続けている。
(魔力は、全快したとはいえないけれど)
それでも、シャノンは放っておくことができなかった。
***
「え、ルロウがいない?」
「うん。起こしに行ったときにはもういなかったよ」
「夜中にどっか出かけちゃったみたい〜」
思い立ってすぐに三階の食堂にやってきたシャノンは、朝食を摂っていた双子の言葉に愕然とした。
(あんなにひどい状態で、どこに行ったの?)
表情を曇らせたシャノンに、双子は顔を見合せた。
「ねえ、シャノン。昨日フェイロウの部屋にいたでしょ」
「どうしてわかるの?」
「部屋ににおいが残ってたから。フェイロウと、当主サマ、シャノン」
「あと香水くさい女たち〜」
双子は相当鼻が利くのか、昨晩の面々を言い当てた。
だが、女性が数人いたというのは知らない。
「……きっと当主サマが部屋に来たから、女どもは帰らされたんだね。前にもそういうことあったから。それで、フェイロウは自分から出かけて行った感じかな」
「そんなことまでわかるなんて、ハオはすごいね」
「で、なにがあったの? シャノンも部屋にいたんでしょ」
ハオは空席となっているルロウの定位置に目を向けて、ぽつりと言った。
いつものようなふざけ混じりのものではなく、少し深刻そうな声音。シャノンは昨晩のことを双子に話すことにした。ダリアンから口止めはされていないし、シャノンを聖女だと知る二人なら彼の中にある禍々しい不浄のことも隠せず言えると思ったからだ。
「――それで、当主様と一緒に追い出されたの」
ひとまず刻印の異変のことは端に置いて、シャノンが把握している限りのルロウの体内の状態を双子に説明した。
話が進むにつれて双子の朝食を摂る手が止まり、話を終える頃には完全に動きを止めていた。
「そんなに、ひどいの?」
「うん……あそこまでの人は、教会で公務をしていたときも見たことがなかったよ」
「……シャノンなら、治せる?」
いつもなら気の抜けたように語尾を伸ばしているヨキも、このときばかりは余裕ない様子だった。
「癒しの力をルロウに使うことができれば、最悪な状態からは抜け出せると思っているんだけど……」
また、体内の魔力が枯渇するほどの無理をしなければ、シャノンの体力も持つはずだ。
本来なら一気に毒素を浄化するのが理想だが、そんなことをすれば今度こそシャノンの命が尽きてしまう。
「ハオ、ヨキ。お願い、協力してほしいの」
「ぼくたちが」
「きょーりょく?」
ルロウの命令は絶対の双子は、彼の意思を曲げるようなことはしない。
しかし今回は、双子にも思うことがあったのだろう。
シャノンの言葉に真剣な面持ちで耳を傾けていた。
これも、聖女の
――夜。
シャノンはルロウの部屋の前にいた。
双子に協力してもらい、彼の帰宅を知らせてもらうことができたので、すぐに三階にやってきたのである。
シャノンはもう一度ルロウと話して、会話の中から糸口を探れないかと考えた。
「……ルロウ。わたし、シャノンです。昨日は突然、ごめんなさい。少し、話したいことがあってきました」
コンコン、とノックをする。
けれど、向こうから声が返ってくることはない。
もう眠ってしまったのだろうか。それとも、シャノンだとわかっているから反応しないのかもしれない。
(ダメ元で来てみたけれど、簡単にはいかなそう……)
そう思いながらも、最後にもう一度ノックをしたときだった。
固く閉ざされていた扉が、キィ、と静かな音を立てて開いた。
「ルロウ――」
隙間から窺えた赤い目。薄暗い部屋の中から妙に輝いて見えた色に気を取られていれば、次の瞬間には腕を掴まれ引きずり込まれていた。
***
何が起こったのか考える暇もなかった。
腕を凄まじい勢いで引かれ、気がついたときには嗅ぎ慣れた香が充満するルロウの部屋の中にいたのだ。
「ルロウ、ルロウ……!」
シャノンの腕を掴んでいるのは、間違いなくルロウだ。
しかし、彼は何度呼んでもこちらを振り返ることなく、ただ無言のままシャノンを奥へと連れていく。
部屋の奥。不意に視界に入ったのは――いつか見た大きな寝台だった。
(どういうこと? どうして、なにも話さないの? ルロウ、どうしたの?)
頭の中で混乱が渦を巻き、どくどくと心臓の音が早くなる。
「わっ……!」
そんな、まさか、と。
ルロウと再会した日の寝台の光景が頭に蘇ったと同時に、シャノンの足は床から離れ、視界がぐるりと反転した。
衝撃はわずかなものだった。
寝台に倒れ込んだのが良かったのだろう。痛みはなにもなかったが、体はちっとも動かすことができない。
「ル、ロウ?」
頼れる灯りは、淡く発光した窓際の照明だけ。
(顔が、近すぎる)
いやそれよりも、体がありえないほど密着している状態に、ようやくシャノンは自分が押し倒されていることに気づいた。
ぽたぽた、と照明に反射して落ちてきた光の粒が鼻の頭に当たり、シャノンは目を丸める。
湯浴みでもしていたのだろうか。
半裸姿のルロウの肌や髪には、水滴が付着しており、まだ全く乾き切っていないのがわかる。
それが堪らなく淫らな妖艶さを放っており、シャノンは見てはいけないものを見ているような気になった。
「ルロウ、どうしたんですか。あの、どいてっ」
しなやかな腕に捕らわれ、隙間から抜け出すことも不可能で。
のしかかられた状態では体を起こすこともできず、胸を押し返すようにルロウに触れば、陶器と見紛う滑らかな肌の感触を直に感じてしまいなおさら頭がパニックになった。
「…………」
こちらを見下ろす真紅の目が、獣のようにじりじりと荒ぶっているようでいて、どこか虚ろさが否めない。
シャノンが精一杯に身じろげば、艶やかに長い白金の毛先が、頬をくすぐった。
「…………」
(笑った?)
まるで身体中をまさぐられるような心地の中、ふと見せたルロウの笑みに、ぞっとする。
ルロウの瞳は、こちらを見ているようで、なにも映してはいなかった。
薄ら笑っていても人らしい感情は一つも見当たらない。
それでも男性にしては細く綺麗な指先が、さも当然のように、強ばったシャノンの体へと伸びようとしていて。
その美しい面差しが、ゆっくりと目の前に近づいてくる。
(……!)
このままでは、危ない。流れに任せてしまってはいけない。胸の中で響く警鐘に、シャノンは息を思い切り吸い込んで、渾身の声をあげた。
「ルロウっ!!」
こんなに大声を出したのは初めてだ。
しかし効果はあったようで、ルロウは我に返った様子でぴくりと肩を震わせた。
「…………?」
そして、彼の下で強ばったままのシャノンをゆっくりと覗き込むと、
「――ああ、違った」
こともなげに紡がれた言葉に、シャノンは声を失い唖然とするしかなかった。