その日、ルロウと双子が揃って用事があるため、シャノンは久しぶりに一人きりの時間を部屋で過ごしていた。
マリーとサーラに消化の良いオレンジムースのおやつを貰い、にこにこしながら平らげたあと、執務の合間を縫ってダリアンが様子を見にやってくる。
ダリアンの顔を見たシャノンは、「そういえば……」と、あることを思い出した。
記憶返りで見た、クア教国で追っ手から逃げていたときのことである。
「クロバナの種を、食っただと!?」
「は、はい」
「死にたいのかお前は!」
「あの時は、食べられる果実だと思っていて……」
状況が状況だったのでシャノンを責められるわけもなく、ダリアンは半分ほど浮かしていた腰をまた椅子に戻した。
さすがのダリアンでも動揺を隠せなかったのか、困惑めいた嘆息をもらし、額に手を当てている。
「クロバナの種なんざそれこそ猛毒だ。蔦よりもさらに瘴気が凝縮されているからな。それを取り込んで生きていられたということは……。確定するのはまだ早い。だが、お前の言うとおり体に特別な抗体ができたのかもしれない」
クロバナの種や蔦を用いた実験は、これまで数多くの人の手により行われてきた。
現在はかなり規制されているが、百年以上前はそれこそ動物や人を実験体として使い、多くの犠牲をはらいながら研究が進められたという。
クロバナの種、蔦など、体に取り入れた際に起こる身体症状を記録するための試験では、実験体全員が数時間後に黒い斑点を発症し死亡が確認された。
今も公にはできないが研究は進められている。それでも目立った成果が得られていないのが現状である。
「クア教国の辺境で、クロバナの蔦の中を通過したと言ったな。具体的な場所は覚えているか?」
「いえ……たしか、少し離れたところに小屋が建っていました。それと、船着場。すごく寂れた印象があって、人はいなかったです」
もっと具体的な地名を覚えていればよかったのだが、シャノンも川から流されて地理を把握する余裕はなかった。
「でも、わたしの浄化で……蔦が消えるかもしれないということですよね? そうだと決まったわけじゃなくても、早く試してどんな効果が出るのかを知ったほうが……」
「そう焦るな」
ダリアンは思い詰めた顔をするシャノンの頭にぽんっと手を置く。
「すまないな、さっきは声を荒らげて。お前の逸る気持ちも理解している。今のお前は刻印の影響が薄まり、過去の記憶を思い出し始めたことで人格が再構築されつつある。元のお前の性格というやつだな」
「……」
「聖女の精神なんてものが消えても、お前のお人好しは元からのものなんだろう。お前は自分にできることなら、ある程度体を犠牲にしてでも力を貸したいと思っている。ルロウのときのようにな。違うか?」
シャノンは否定しなかった。自分がお人好しだとは思っていなかったが、概ねダリアンの言うとおりだったからだ。
今まで意識の外に留まっていた罪悪感や悔恨が、日を追うごとに強まっている。見世物小屋で見送ってきた不幸の数々が一つずつ良心を抉ってくる。
皮肉なことに、聖女の精神から外れた弊害が、こんなところでシャノンを悩ませていたのだ。
「聞け、シャノン。今のお前に必要なのは、十分な休息だ。体調や魔力だけの話を言っているんじゃない。
シャノンの胸の中心を指さしたダリアンは、まるで幼い子供を諭す父親のような優しい顔をしていた。
「……当主様、ありがとうございます」
シャノンも素直に頷いた。
覇王なんて呼ばれ方をして、恐ろしい面があったとしても、やはりシャノンにとっては温かくて優しい人物であることに変わりはなかった。
抗体の件に関しては一度ダリアンが預かることとなり、シャノンはもう何度も耳に聞いていた「いいからお前は無理せず休むんだ」という言葉を、念押しのように改めて言われることになった。
「しかしまあ、お前の無茶はルロウが許さないだろう」
「それについて気になっていたんですけど。ルロウは一体どうしてしまったのでしょうか……」
この間、ルロウと面と向かって話をして、シャノンの感じていたわだかまりのようなものはなくなったと思う。
だからといって急激に仲を深めたいとは思っておらず、普段の会話が成り立てばそれでよかった。
しかし、最近のルロウは……あまりにもシャノンに構いすぎているのだ。
「鳥の刷り込みを知っているか」
唐突な問いに、シャノンは頷いた。
「雛鳥が孵化した直後に、初めて出会った動くものを追いかけたり、母親だと思い込むことですよね……?」
「ああ、そうだ。刻印付けともいわれるが、愛着行動ないし追尾行動をするようになる現象だな」
「あの、それって……」
まさかあいつがな、と言いたげに、ダリアンは視線をシャノンに寄越した。
「ルロウが、それと似た状態になってるってことだ」
「…………? ……? どうしてそんなことに?」
理由が分からず頭にいくつもの疑問が浮かぶ。あのルロウに雛鳥と同じようなすり込み現象が起こっているとは考えにくい。というか、信じられない気持ちが勝っていた。
「すり込みって言葉が悪いかもしれないが……そうだな、お前の存在はあいつの人生において、無視できないほどに強い衝撃だったってことだろう」
シャノンが大聖女以外で初めて誰かを――ルロウを眩しく特別に思ったように、ルロウも同じ気持ちをシャノンに抱いたということだろうか。
すり込みと聞いて難しく考えすぎてしまったが、要するに心を開いてきてくれている、ということなら納得がいった。
「しかし、あれだな。私としては口だけの約束ではなく、この際あいつと正式に婚約関係を――」
「少しびっくりしましたけど、そういうことなら最近のルロウの様子も分かった気がします。つまりわたしのことを、ハオやヨキと同じようにそばにいても不快にならない存在だと、思ってくれているってことですよね」
「……ん?」
もう殺さない、と言ってくれたのも、そういうことなのだろう。
だが、安心して甘えてばかりいてはだめだ。
(無理のない範囲で少しずつでも自力で生活できるように、歩く練習と、魔力の回復を頑張ろう)
シャノンはうんうんと頷き、そんなシャノンの様子にダリアンは微妙な顔をしていた。