ふと、懐かしい光景が広がっていた。
シャノンはすぐにこれが「記憶返り」だと悟る。
見えてきたのは、最近よく振り返る見世物小屋での、一場面だった。
『一気に浄化するなって言ってんだろ!! 金を出させるために数回にわけで通わせるんだよ!』
『でも、それではあまりにも……』
『口ごたえするんじゃねぇ!』
バシッ、バシッ。
拷問用器具の鞭で容赦なく背中を叩かれる。続いて足裏、ふくらはぎと、抵抗する意思を無理やり剥ぐように、何度も痛めつけられる。
最近、ふらつきながらもようやく歩けるようになってきたからだろうか。足が痛めつけられる記憶ばかり思い出す気がする。
『逆らえないように、またこうしてやる』
見世物小屋の男は慣れた手つきでシャノンの足首をナイフで切った。その後、乱暴に檻に押し込まれ、流れる血を強く手で押さえながら、寒さに震え夜を耐えた。
耐えたところでシャノンに待っているのは希望のない朝である。
そんな毎日が続いて、続いて、続いて――次第に息苦しくなってくる。
これは記憶返りのはずなのに、妙に鮮明で空気が重々しい。
(……これは本当に、夢? いま起こっている、現実じゃなくて?)
自分の判断を疑い始めたとき、不意に誰かの影が現れた。
『愉しい愉しい見世物小屋は…………ここか?』
その言葉を最後にようやく記憶返りは終わり、シャノンの意識は現実に戻った。
***
「……っ!」
目を開けたシャノンは絶句した。
なぜか目と鼻の先にルロウの顔があって、静かな寝息を立てているからである。
(ど、どういうこと? ここ、ルロウの部屋っ?)
鼻に薫るルロウの香の匂い。
シャノンは視線をキョロキョロと動かし、そしてルロウの寝台で横になっていることに気づいた。毛布は被っておらず、ルロウもシャノンもただ寝転がっている状態なのだが、それにしても意味が分からない。
(落ち着いて……たしか、今日は朝から三階に行って、ハオとヨキと一緒に朝食を摂っていたはず)
朝食の席にルロウの姿はなく、双子に聞くと「違反者を始末しに行ったよ」と返答がきた。シャノンがいた見世物小屋のように、近頃は違法な商売をしている人間の拠点が見つかったと報告が上がってくるので、ルロウが直々に潰しに回っているのだという。
それから三人で朝食を食べ終えたあと、お腹を休ませながら他愛ない会話をしていた。話の中でシャノンがどれだけふらつかずに歩行ができるようになったのか、という話題になり、双子にその場で少し歩いて見せることになった。
シャノンの歩行練習は順調で、杖に頼ることもあるがだいぶ躓くことなく歩けるようになっていた。
双子も大袈裟に「すごいすごい!」と褒めてくれて、そろそろ自分の部屋に戻ろうかと考えていたときである。
ちょうど任務から帰ってきたルロウと入口の前でばったり鉢合わせた。
そして、ルロウに「おかえりなさい」と言ったところまでは覚えている。だが、以降の記憶がなかった。
(なんだか眠気があったような気がしたけど、記憶返りのせいで意識が飛んで、倒れたんだ……)
シャノンはガバッと起き上がる。
やはりここはルロウの部屋で、寝台だ。柔らかすぎて体が傾くのを必死に耐えながら、とりあえずここを降りようともぞもぞ動く。
「――おい」
その声が響いた瞬間、背中に視線が注がれるのを感じた。
シャノンは動きを止め、ギギギ、と不気味な人形のように振り返った。
「ル、ロウ……あの、どうしてわたし、ここに?」
「……」
「ルロウ?」
「…………ネズミ狩りから戻って来れば、おまえが突然倒れた。ただ眠っているようだったのでな、ここまで運んでやった」
「それは、ありがとうございます。でも、なぜわたしはルロウと一緒に寝ていたのでしょうか」
ルロウは何を言っているんだと言うように、わずかに眉を顰める。機嫌が悪いというよりは、たんに寝起きで眠そうだった。
「……ここはおれの部屋で、これはおれの寝台だ。おれがここで眠るのは当然だと思うが?」
なんだか頭が痛くなってくる。
シャノンだってそこまで厳格な女性像があるわけではない。むしろ男女の関係に関しては人よりも疎いだろう。
それでも、結婚をしていない二人が同じ場所で眠るのはあまり褒められたことではないと知っている。
そして、ルロウの貞操観念が緩いということも、何となくだがシャノンは察していた。
(迷惑をかけたのはわたしなんだから、ここは早く退散して、次から気をつけよう……)
気を失ってまで記憶返りが起こるのには驚いたが、無限に記憶があるわけではないので、これも徐々に収まってくるだろう。
「お休みのところお邪魔してしまってすみません。すぐに出ていきますので」
記憶返りが落ち着くまでは、十分に注意して行動しようと決めて、シャノンは再び寝台から降りるべくもぞもぞ動く。
「シャノン」
「わっ」
大きな寝台を移動し、ようやく床が見えたところで――シャノンは再度、寝台の中心に戻されてしまった。
……ルロウが、シャノンの腰に腕を回して引っ張り込んだからである。一気に二人の距離が近くなり、背中にはルロウの体温を感じた。
いきなり何をするのかと動揺の声をあげる前に、シャノンの頭の上あたりでルロウの声が響いた。
「おまえ、一体どのような夢を見ていた」
「……え、ゆ、夢ですか」
「おれの服を掴んで離さず、震えて泣くほどの夢だったか」
ゆったりとした調子で並べられる言葉。尋ねられてから、シャノンは自分の目元や頬に涙の乾きが残っていることに気がつく。
自分が服を掴んで離さなかったから、ルロウは仕方なく隣で眠ったのだろうか。それなら申し訳ないことをしてしまったと、シャノンの顔が少しだけ俯いた。
「記憶返りで、見世物小屋の記憶を思い出していました」
「おまえを虐げた男も、出てきたのか?」
「……はい」
「あの男はおれが殺した」
「はい」
「もう、この世にはいない」
一体この会話はなんだろうと疑問を持ちながら、シャノンは短く返す。いまだに腰にはルロウの手があり、抜け出せそうにない。
「この世にいない男の姿に、おまえはいつまでもうなされている。どうすれば、おまえの夢から男は消える?」
もしかして、気を遣ってくれているのだろうか。
ルロウの行動に翻弄されっぱなしだったシャノンは、その可能性にたどり着いた。
「なにをすれば、おまえの記憶から男を葬れる」
「……ふふっ」
まったく笑えるような内容ではないはずなのに、思わずシャノンは小さく吹き出してしまった。
あまりにも素直に、純粋に、子供が疑問をぶつけるような言葉だったからだ。
シャノンが笑ったのは体の振動でルロウにも伝わったようで、彼は怪訝そうな表情をシャノンに向けていた。
「あの、ルロウ。さすがに記憶の中ではどうすることもできないので、記憶返りが終わるのを待つしかないんだと思います」
「……では、四六時中寝て、さっさと記憶返りとやらを終わらせろ」
「それができれば苦労は……って、何をするんですか、ルロウ!」
突然ルロウはシャノンの体を後ろに引き、枕元に頭を押し付けた。
「眠れ」
(そんな無茶な……!)
どんな気まぐれだと、ルロウの行動に振り回されるシャノンだが、一応ルロウなりに理由はあったようで、起き上がろうとしているシャノンに教えてくれた。
「おれの衣服を掴み、おれがおまえのそばで眠ると、おまえの赤子のようなぐずりはピタリと止まった」
「……!」
「ここで寝たほうが、おまえは安心して眠れるようだぞ」
ほのかに揶揄うような気配を感じた。
どれがルロウの本心なのか掴めない。しかし、今の発言が嘘ということはないだろう。そんな嘘をついたところで、ルロウにはなんの得もないのだから。
「ね、寝るなら……じ、自分の部屋で寝ます!」
「なにを照れている。餓鬼のくせして」
「餓鬼餓鬼って……こんな体ですけど、わたしは十五歳でもう成人年齢なんですよっ」
「大人の女と言いたいのか」
「そ、そういう意味じゃ……!」
ルロウが「大人の女」と言うだけでなぜだが卑猥に聞こえ、シャノンはぶんぶんと首を振る。
続けて「ではどういう意味だ」と返ってきたところで、これは本格的に揶揄いにきているということを理解した。
そのまま強引に話を切り上げたシャノンは、ふらつきながら寝台を脱出すると、逃げるように扉まで歩いていく。
「あ、シャノン。起きたんだ」
「もうおやつの時間だよ〜」
そこへ、双子がやってくる。
双子はシャノンがこの部屋でルロウと眠っていたことを知っていたようで、時間を見て迎えに来てくれたようだ。
それなら最初からルロウが自分の部屋に連れていくのを止めて欲しかったと思わないでもないが、大前提として双子はルロウ第一主義である。
また、これまでの行きずり女たちがルロウの部屋にいることを双子は良く思っていなかったが、二人からするとシャノンなら大歓迎だし問題ないということだった。シャノンからすると困った話である。
「シャノン」
双子に歩行を手伝ってもらい部屋を出ようとすれば、去り際にルロウが名前を呼んだ。
寝台で体を起こしたルロウにそっと視線を向ければ、端正な顔に微笑が浮かんでいる。
「いつでも、眠りに来い」
「遠慮します……」
その会話を傍から聞いていた双子は、廊下を歩きながら「一緒に寝ればいいのに」「シャノン、安心して眠ってたよ〜」と茶々を入れられ、シャノンはため息を吐いた。