一面を緑の草が覆い、風は吹き抜けるように清冽な自然の香りを漂わせる。ケイラノス近辺を牧畜の場と選んだのであろう、素朴な民は馬に乗っている一行へと奇妙な仕草で挨拶をしている。指を立てながら斜め上を突き出すのは彼らの敬意の証である。幸いに羊の糞の臭いが遠かったツコウ達はそれを心地よく受け取った。
ケイラノスの南に位置するサーラーン。彼の国との間に、ケイラノスは砦を設けていなかった。正確にはサーラーンとの間でいさかいが絶えなかった悲しい時代に作られたこともあったが、サーラーンの兵達はそれを無視して行動するので無意味だったのだ。
ボレアはケイラノスにとって周囲の一要素に過ぎないが、サーラーンは強力な同盟国である。この時代には不思議なことに、サーラーンとケイラノスは互いを偉大な国と認め合う存在だった。在り方が違いすぎて噛み合わなかったことが、かえって友情へとつながったのかもしれない。
わけても六大騎士団はサーラーンにとって尊敬の対象でもあった。彼らは馬に乗れる者にこそ敬意を払う。木っ端騎士団と違い、国費から馬の維持費と練習の場が設けられる六大騎士団はほぼ全員が騎馬が可能だ。
「少し早いが、新婚旅行だな!」
「まだ結婚まで行ってない。あとサーラーンはそういうのにあまり向かんだろう」
開放的な景色を好むシャルグレーテは妙に高揚しているが、ツコウは逆に物憂げだった。ここから先の活動が面倒で仕方が無いのだ。ここにアルゴフの弟子がいるかいないかはすぐ済む。大王に聞けばそれで終わりだ。どちらかと言えばそうした邪悪が闊歩している状況を警告しに来たようなものだ。
ともあれケイラノスを邪悪の生まれる地と考えられるのは避けたい。幸いなことにサーラーンは遊牧民族ではあるが、開明的な遊牧民であって他国からの客のために首都をわざわざ作っていた。商売も兼ねている以上は当然かも知れないが、大王はどこかと探し回る必要だけは無かった。
なぜ、ツコウが憂鬱かと聞けば一剣達はこの国で特別な敬意を払われているのだ。特にツコウは。
交流の一環として騎馬戦が催されたことがあり、そこでツコウは一番の成果をあげた。以前、ペグマに騎馬戦が苦手と言った言葉が嘘というわけではない。持ち歩かない剣や槍に弓も騎士の水準以上に扱えるが、短剣が一番得意なだけだ。そして、サーラーンとの騎馬戦においてツコウはその短剣で勝利してしまったのだ。
好きではない武器を使うのが面倒になったツコウは、双剣を鎖で繋いでブーメランのように投げて遠距離と中距離を制し、近くでは華麗な双剣捌きでサーラーン人を打倒した。それだけなら卑怯者だと言われそうだが、参加者を数十人は倒してしまったため、流石のサーラーン戦士も尊敬するしかなかった。サーラーンにおいてツコウには“偉大なる投剣主”という奇妙な二つ名が付いている。
武芸好きなサーラーン本拠に行けば、挑戦者が湧いて出てお祭り騒ぎになるだろう。大体サーラーン戦士は弱いどころか強い。そんな連中としのぎを削るような試合はツコウにとって面倒事でしかなかった。
後ろから響く楽しげな声もなんとなしに腹が立つ要因だ。
シャルグレーテの付き人兼騎士であるべリムとアルムが、ツコウの従騎士コリンをからかったり、可愛がったりしていた。少年から青年へと完全に変化した純朴な若者は、吹き出物やそばかすが無くなったことで愛嬌を無意識に発しているので、ツコウより遥かに人気があった。
「乗り気じゃないのは俺だけか」
「まぁそうだろうね」
連れ合いの相槌に向かって、ツコウはしかめっ面を返した。
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同時刻、推測では本命の沼地へとコーディアとテーズは足を踏み入れていた。
水気が多い土地であることは確かなため、万が一のため甲冑ではなく、鎖帷子を脱ぎやすく改良したものを着ただけの装備だ。テーズは素直に気味が悪いという態度を表していた。
沼から直接生えた木々は幅広く太陽を遮り、水面に浮かんだ葉の上には奇妙なトカゲが虫を食らっている。湖面よりもこびりつくような臭気が体にまとわりつく感覚は慣れない者にとっては耐え難い。
「旦那ァ。こんなところっていうのも何ですが、本当に本命なんですかねぇ」
「口調を改めろ一剣テーズ。品格が落ちる」
まず窘めにかかるのがコーディア流だ。一剣の代表者といえば最年長のコーディアであり、彼は真っ当な騎士の精神を持っている。強さだけを基準とする一剣だが、他国から見て恥ずかしい連中と見られたくない。
「可能性は高い。この地に住む民は変わり者が多く、それゆえに変わり者の来訪者にも意識を払わない。さらには迷信深く、奇術魔術の存在を信じている」
「実際にあったんですから、先見の明があるって見ても良いかも知れませんねぇ」
「そしてアルゴフの弟子達はこれまでの経緯から六大騎士団に対して、過剰な反応を見せている感がある。騎士が最も力を発揮できないのは、水辺だ。少しばかり足を引っ掛ければ、それだけで勝負が終わる可能性すらあるからよ」
意外に真面目に話を聞いていたテーズは講義が終わると、腐って緑色になった水たまりを蹴った。
「ま、少なくともここで死ぬのはごめんでさぁ」
「口調。それと、ここで死んだ騎士は本当にいるのだ。敬意を払え」
歴代の王の中には迷信深い者もいて、その人物はこの地が邪教の住処であるとして攻め立てた。その結果は散々なものであったが、征服まではこぎつけた。というよりは征服したからこそ、結果が散々になったのだ。
兵士達は慣れない環境で次々に体調を崩し、毒を食らって死んでいった。騎士達は沼地の民の一部に首を斬られ、あるいは薬漬けにされた。さらに代官はここからマトモな特産品が取れず、農耕もできずに苦しむだけだった。
この地を気に入った変わり者もある程度いたが、結局は次の時代でケイラノスは速やかに手を引いた。わずかに得られる特殊な薬なども交易で手に入れた方が遥かに楽であった。ある意味、これまでで最もケイラノスを苦しめた場所だろう。ただし、対外的にはここもケイラノスの一部とされている。実際の沼地の民は誰が何を名乗ろうと気にもしなかった。
その時、沼地からどろりとした物体が立ち上がった。テーズが長剣を滑らかな動きで抜いて、両手で構える。テーズにとって、やや意外なことにコーディアも槍を構えた。
「なんです? ここは“止せ、沼地の民だ”とか言って止める場面じゃ無いんですかい?」
「ここに住む民は人見知りだ。私だけならともかく、お前がいるのに出てはこない」
続けようとしたコーディアの話は中断された。流石にそうもゆっくりとは立ち上がってくれなかったのだ。沼から現れたのはどこから見ても死体だった。沼の中で腐敗の度合いが低かったのか、ぬめった兜と剣を身に着けている。
「敬意は?」
「払わんで良い。後で埋葬すればよかろう」
「了解、了解。しかし、本当に当たり――」
テーズの軽口はそこまでだった。沼から次々に同じものが立ち上がり、小さな部隊が組めそうな数になった。それだけではなく、最後にワニに近い形の怪物が現れる。その怪物だけは見た目だけ見ても、明らかな異形だった。肥大化している異常な頭部と、細長くどこまでも伸びそうな触手を備えていたのだ。
『やぁ、こんにちは。栄えある六大騎士団の諸君。予想よりもずっと人数が少ないけれど……ツコウ殿は来ているのかな?』
「はっ! 残念だが、来てねぇよ。アイツには化け物にもモテてたって伝えてやる。それとも先に降伏するか?」
怪物が口をきこうとテーズは驚かない。情報は共有しているのだ。どうせその奇妙な頭に人間の脳みそでも詰め込んでいるんだろう、と冷静に分析しながら至極真っ当に怒りを募らせる。
『いやいや、まさか。確かにこの集団でも計算上は一剣は討てる。しかし、実際にはそんな事態になってはくれない。私も散々思い知らされたからね……とりあえずの前菜さ。存分に栄光を打ち立ててくれ』
「ほう……つまりそこな怪物が実験体で、それを完成させたいわけだ」
『……何だ。ツコウ殿以外にも怖い人がいるものだ。方向性は丸切り違うけれど、年の功というやつかな? だけど、それもいずれは露と消えてもらう。さて、これ以上、何かに気付かれる前に始めよう』
コーディアの発言がきっかけとなり、死戦が幕開けた。