嵐の前の静けさ。というわけではないが、軍が動き出すのには相応の時間が必要だ。仮に動き出していても少人数の移動よりもずっと遅い速度になる。歩兵もいれば、物資を運ぶ者もいる。戦いが始まった時に余力が一切無いのでは話にならない。
だからこうした空白期間が生まれる。緊張をはらんでいても、何も起こらないという時間が続いていく。
コリンという青年を除けば、ケイラノスは戦争状態とは思えない静けさだった。
青さが抜け始めた男に向かって、最強の剣士が攻撃を加える。例え最強が得意とする短剣でなく、コリンに合わせた長剣であっても、その実力差は歴然だ。触れることすら敵わない。
さらにコリンは身にまとった鋼鉄を持て余していた。新しく継ぎ足された鎧は守りどころか、所有者の足を全力で引っ張っていた。長剣が噛み合った次の瞬間には、コリンは無様に転がっていた。
……動けない。自分の体重よりも軽いはずの甲冑が、立ち上がることすら困難に変える。
「手助けしてやりたいが、自力で頑張れ。戦闘用の甲冑は立ち上がれない重さではない。お前自身の筋力も充分だ。大事なのは転び方と起き上がり方、そしてそれを着ていると内にこもる熱に耐えることだ」
「はいっ……!」
少しふらつきながらもコリンは立ち上がった。これは訓練であるため、実戦ではやや不足だろうが期間が短すぎる。ツコウはまずまずの点数を、頭の中で与えた。
再び噛み合う長剣。今度はツコウが倒れたが、回転するようにして衝撃を受け流した挙げ句、頭が上になるタイミングで既に直立していた。その技術自体は素晴らしいが、コリンの剣で倒れた段階から既にあり得ない。総じて嘘くさい動きだった。
「ツコウは演技が下手だよね」
「放っとけ。というか教えるのに向いているとは、我ながら思えん」
小休止を挟みながら続く訓練。コリンは正式な従騎士となり、
コリンはシャルグレーテの付き人であるべリムとアルムから、助言を受けたり応援されたりと中々に良い身分のようだ。
「お前も次の戦いで全身を覆えるぐらいのモノは用意しておけ。長めのサーコートぐらい持ってるだろう」
「それは持っているけど……君や父上が懸念していた敵は本当に来るのかい」
「知らん。知らんが、来ると考えていた方が良いだろうさ。なにせ敵は哀れなことにアルゴフの弟子なのだから」
シャルグレーテは口を引きつらせて、もう少し丈夫な方が良いかななどと呟いている。
騎士団長やツコウ達が会議で考察した死霊術師達の戦い方。それは単純だが、意表を突くものであると同時に敵の師を考えれば当然のものであった。敵は北のボレア、西の沼地、そして……この美しい都だ。
死霊術師の厄介なところは数を増やすことに尽きる。つまり兵を敵地であろうと現地調達できるのだ。しかし、それだけでケイラノスの首都ドラドミスは落とせない。
「陛下も怖い方だ。いざとなれば全てを打ち崩す気か」
ぼんやりと呟いたツコウは改めて周囲を考える。婚約者がいて、弟子がいて、友人がいる。しかし、その全てが戦う者だ。だからこそ柄にもなく願ってしまった。せめてこいつらだけは誰も死なないで欲しいと。
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机の上で考えるのならば、間違いは無い。北の地で大城塞ダグザから進発した北面軍は、予想通りに2週間目で敵を迎え撃った。現場働きとしては上の者達が考える作戦がすんなり行くはずは無いと考えていたので、やや意外な展開となった。
舞台はボレア側に近づき、北の山ディルザランを超えた荒れ地である。実のところ、机上の空論による予定が的中したのにはわけがある。
「部隊……前進……左翼、100歩前へ……」
そのわけとはボレアの亡者たちに指揮官がいたためである。
亡者の軍勢を差配しながら一際目立つ存在感は、かつての栄光の名残なのか。だが、近づいて見る機会があれば彼の知人は思わず目を背けてしまうだろう。肥大化した筋肉によって、甲冑の一部は弾け飛んでいる。口からは時折、何かの液体がこぼれ落ち、左目は前へと向かって突き出ている。まるで出来損ないのカタツムリのようになってしまった、ボレアの宿将カーネだった。
遠い、遠い、見えるはずのない光景。しかし、それを見てしまった者がいた。かつてカーネが最後に出逢った人間、ボレア最強の戦士ペグマである。本来、一兵卒に過ぎないはずの彼はそのボレア内での知名度から将のような扱いを受け、不満を募らせていたがそんなものは吹き飛んだ。ごくわずかの正統ボレア軍に語りかけた。
「見えるか、貴様ら」
「ああ、見える。俺は的を外したことはねぇ」
超人的感覚のペグマと、斥候や弓手達には見えている。そうでない者たちにも眼前の敵が亡者だと分かっている。ペグマの演説の続きはまだかと人の形をした野獣たちの目がらんらんと輝いていた。
「俺らの大将がひっでぇざまだ。あいつはいつも規律がどうだの、計算がどうだの、文化がどうとか小うるさい奴だった」
「だが、戦場では必ず前にいた」
「そうだ。気に入らないやつだったが、認めてやるよ。カーネは漢だった……これから戦うのはケイラノスへの恩でも、ボレアのためでも無い! 身内があんなざまになっているのを見過ごしたら、ボレアの戦士どころか“漢”でも無くなっちまう! 俺たちのいつものやりかたで、連中をちゃんとした墓に放り込むために戦う! 行くぞ、てめぇら!」
北方軍の決定を待たずして、ボレア軍は突撃した。
これこそが本来のボレア軍のあるべき姿だ。高尚な死兵ですらなく、ただひたすらに蛮勇をもって前に進む。装備に統一性も何もないことは、前の戦と変わらないが徹底的な前進体勢では有利に働いた。
それに対して敵の動きは実に拙いものになった。動きの鈍い亡者達は農民や猟師達。そして、機敏に動く元戦士たち。命令一つで齟齬を生み、取るに足らない集団になってしまう。
幾ら指揮するのがカーネとはいえ、これはどうしようもできない。カーネ自身が知識を絞り出されているに過ぎないからだ。
「死霊術師の弱点か。死を恐れない代わりに、複雑な動作ができない。敵はカーネ将軍に指揮を任せるのではなく、闇雲に突撃させるべきだったんだ。素人め」
中央の主戦場を軍団に任せて、敵陣を見守る
彼は常々、北の勇将カーネと指揮を競ってみたかったのだ。それがあのような様のカーネとの戦いに貶められたと考え、私情が口から漏れていた。
「考える馬鹿も読みやすい。全員、槍を持て。次に出てくる敵の伏兵を蹴散らす。アルマンは敵の改造兵を探せ」
「了解しました」
中央は突っ込んでくる敵を受け止めさえしてくれればいい。本来は
目を眇めて、敵を見る。人型の敵、それがやや間隔を空けたと見た時、リアンは部下を連れて全速で突撃した。敵の隠し札を読むのは容易いとばかりに、淀みなく動く。
中央のぶつかり合いに横撃を加えようとしていた存在は、騎士達の槍と馬の蹄によって文字通り蹴散らされた。それは狼や畜獣の群れだった。正確に言えばそのなれの果てである。
死した方が操りやすい存在であり、素で人間を上回る身体能力。これを投入してくることは端から分かっていたことだ。そして推測を現実のものとしてくれた。
「蹴散らし、探せ! 死霊術師が戦場に出ているぞ!」
これまでの報告から、死霊術師の動物への憑依は数が限られていることが分かっている。だがそれをかなりの数で動かすということは、近くで命令していることに繋がる。カーネが動物の言葉を喋れる訳が無いのだから。
北の戦線はケイラノスにとって圧倒的有利に進んでいく……