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9-4

「お妃様、ご準備を」


部屋の外から、侍女の静かな声が響く。

エリアスは無意識に眉をひそめた。


(……お妃様、ね)


そう呼ばれるのは、これで何度目だろうか。

王弟妃。つまり、レオナードの正式な伴侶。

指輪がはめられた時点で、それを否定することはできない。

だが、それでも、こうして直接 "妃" として扱われるたびに、強く違和感を覚える。

それは日を数えるごとに増していく。


(俺はレオ様の側近だったはずだ。今も、そうであるはずなのに……)


そう思いながら、手元の指輪を見つめる。

この指輪がある限り、自分が 「レオナードのもの」 であることに抗うことはできない。

嬉しさもある。けれど──。


「皆、私をお妃様と呼ぶけれど……早くないですかね?」


思わず苦笑いでそう返すと、侍女は驚いたように目を瞬かせた後、にこりと微笑んだ。


「ですが、正式に王弟妃となられた以上、このお呼び方がふさわしいかと」

「――いえ、だって内々でしょう?」

「お妃様の婚姻は正式に公布されておりますよ?」


一瞬、思考が止まる。


(今……何て言った?)


「正式に公布……?」

「あら、ご存じなかったのですか?」


侍女はまるで「なぜそんなことを?」とでも言いたげな表情で首をかしげる。

エリアスは、その場で愕然とした。


「……」


エリアスの指が、指輪の上でぴくりと動いた。

公布。

つまり、王宮内だけの事実ではなく、国中に正式なものとして伝えられたということだ。


(……俺は、もう "王弟妃" であることを覆せない)


確かに、指輪を受け入れた時点で、自分の立場は変わっていた。

だが、心のどこかでまだ 「知られなければ、なんとかなるかもしれない」 と思っていたのも事実だ。


それが――もう覆らない。


「お妃様?」

「私はまだ、文官としての仕事を放棄していません……王弟妃として扱うなら、まず"文官としての私" を終わらせてからでは……」


それを言ってしまった瞬間、後悔もした。

侍女に言っても仕方ない。八つ当たりのようなものだ。

けれど、言わずにはいられなかった。

だが、侍女は困惑した顔をしながらも、答えた。


「……ですが、すでに文官としての辞令も出ています」

「――――」


その言葉に、エリアスの背筋が凍りついた。


(……は?)


「馬鹿な……俺は、知らない……」


アカデミーで努力を重ね、試験を受け、文官としての職に就いた。

エリアスが今の立場にいるのは親のコネではない。

本来なら、今頃は執務室で報告書の整理をしている時間だ。

それが、どうして――こんな、"妃" などと呼ばれる立場に。


「……ふざけるな」


思わずそう呟いた時――


「誰がふざけているというのだ?」


低く静かな声が響いた。

扉の向こうには、いつの間にか レオナードが立っていた。

レオナードが手を払うと、侍女たちはすぐに頭を下げ、足早に部屋を出ていく。

エリアスは、レオナードを睨むように見上げた。


「……レオ様、これは――」

「お前はすでに私の妃だ。それが公になった以上、文官である必要はない」


レオナードは淡々とした口調で言う。

それがエリアスは無性に腹が立たしかった。


「俺は文官です。努力を重ねてここまで来た。それを――"お前は妃だから" などという理由で捨てさせられるのは、到底納得できません……!俺は、俺の仕事に誇りを持っています。何の相談もなく、それを奪われるなど――」

「奪ってなどいない」


レオナードの言葉が、エリアスの言葉を遮った。


「お前は '王弟妃' だ。それが何よりも優先される」

「……っ」


まるで "当然のこと" であるかのように言い放つ。

エリアスは息を詰まらせ、レオナードを睨みつけた。


「……それは、俺の人生を否定することと同じです」

「そうか?お前はもう、お前の役目を持っている」

「それは、俺の意思じゃ――」

「ならば、お前の意思とは何だ?」


レオナードは少しだけ首をかしげ、静かに目を細める。


「私の伴侶であることは、お前の意思ではないと?必要ないことか?」


金の瞳が、鋭く射抜くようにエリアスを見据える。


「……っ」


レオナードのことは、好きだ。

それはもう、愛だと指摘されればそうだろう。

それは否定できない。

だが、それとこれとは話が違う。


「……自分の人生を全部渡せるわけじゃないんですよ」


そう言った瞬間、レオナードの表情がわずかに動いた。


「そうか」


淡々とした声の裏に、抑え込んだ何かが滲む。


「お前が何を言おうと、もう変わらない」


そう言いながら、彼はゆっくりとエリアスの手を取る。

そして、指輪の上から、軽く唇を落とした。


「……これはもう、お前のすべてだ」


囁くように言ったレオナードの手の温度は、どこか冷たく感じた。


(俺は……もう、あの場所に戻れないのか?)


思い出すのはレオナードの側近として過ごした日々だ。

カーティスが言うような未来は避けられたのかもしれない。

自分が恐怖していた捨てられる日はなくなったのかもしれない。

だが、これは──違う。

まるで、日々の全てを否定されたかのようだった。


「レオナード殿下なんて、嫌いです……」


こみ上げた思いは涙となってエリアスの瞳から落ちた。

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