エリアスの逃亡未遂から、数日が経過し──状況は、さらに悪化していた。
「お妃様、ご準備を」
部屋の外から聞こえてくる侍女の声は、これまでと変わらない。
けれど、雰囲気は確実に違っていた。
(……監視が、増えた)
逃げようとした代償は大きかった。
以前までは、扉の前に立つ護衛は二人だった。
だが、今は四人に増え、侍女たちの入れ替わりも頻繁になった。
部屋の扉は常に施錠されており、開けられるのは侍女か護衛のみ。
(……逃げようとしたのが悪かったのは、わかってる)
けれど、エリアスの自由はさらに遠のいた。
浴室も室内のものに変えられ、レオナードが伴う時だけ、部屋を出た浴室に行くことが出来る。
ただ、それだけ。
完全に、王弟妃という"籠の中の鳥"になったのだと、エリアスは痛感した。
「……お妃様?」
侍女の優しい声に、エリアスはゆっくりと息を吐く。
「わかりました。準備をします」
短くそう答えると、侍女たちが中へと入ってくる。
彼女たちはいつも通り、丁寧に礼をしながら支度を始めた。
(……王弟妃としての"教育"か)
侍女たちの手によって衣服を整えられ、椅子に座らされる。
この時間が、エリアスにとって何よりも苦痛だった。
少し前から始まった“妃教育”だ。
「本日は、礼法と所作のお勉強を進めてまいりますね」
柔らかい声で告げられた言葉に、エリアスはそっと目を伏せた。
今日も、昨日と同じように"王弟妃としての振る舞い"を叩き込まれる。
勉強もマナーも苦ではない。王宮に上がるときだって、作法は再度覚えなおした。
側近になってからも向上心を持ち、励んできた。
なのに、この時間は異様に苦痛でたまらない。
「どうして、これほどのことが必要なのですか?」
思わずこぼれた問いに、侍女の一人が微笑む。
「当然のことですわ。お妃様は、王弟殿下の正式な伴侶ですから」
「……私は、側近でした」
「ええ。でも、今は王弟妃でいらっしゃいます」
あまりにも簡単に言われた言葉に、エリアスの胸がざわついた。
(本当に、もう"側近"ではいられないのか?)
試験を受け、努力を重ねて得た立場だった。
誇りを持っていた仕事だった。
それを、何の相談もなく奪われ──王弟妃という"新しい役割"を押し付けられた。
(……押し付けられたんじゃなく、こういう形じゃなく……)
もし、求められていたのなら──こんな形でなければ。
エリアスは、喜んで受け入れていたかもしれない。
(レオ様の伴侶になれるなら、それは……望んでいたこと、なのに……)
だが、現実はそうではない。
望んでいたはずの未来は、まったく違う形で手元に落ちてきた。
「……」
エリアスは黙って目を閉じた。
逆らっても、意味がない。
逃げることすら許されなくなったのだから。
「お妃様、本日は殿下が視察よりお戻りになります」
侍女の言葉に、エリアスの指がぴくりと動いた。
(……レオ様が戻る)
この数日、レオナードは視察と称して宮殿を離れていた。
その間、エリアスはほんの少しだけ自由を感じていた。
だが、それも今日まで。
レオナードが戻ってくるということは──。
(……また、監視が厳しくなるな)
あの人が好きだ。今でも変わらず。なのに、待ちわびるわけではなく──いない時間を自由と思ってしまう自分も嫌だった。
けれど、今の状態も受け入れられない。
エリアスは小さく息を吐き、窓の外に目を向けた。
けれども、その時
そんなことを考えていた時──
コン、コン。
控えめなノックの音が響いた。
「お妃様、王がいらっしゃいました」
(……え?)
思考が一瞬、停止する。
(……王が? ここに?)
エリアスは戸惑いながらも、侍女に促されるまま立ち上がった。
扉が開かれると、そこには──エドワルド、そしてカーティスが立っていた。
(……カーティス?)
思わず目を見開く。
「調子はどう?」
カーティスは軽く手を上げながら、微笑んだ。
それはいつものように、気軽な仕草で。
「どうして、お前……」
「どうして、って親友の顔を見に来たに決まってる」
エリアスの前に立つと、カーティスはエリアスに抱き着いた。
「ごめん、エリアス……巻き込んで」
小さな声は少し震えていた。
巻き込む、とは“小説”のことだろう。
あれを全部信じたわけではないが、概ね事態は外れず流れた。
それに恐らく、色々とあるものの、捨てられるという未来は防げたのだろう。
変わりに逃げられない未来になったが。
カーティスの背中を小さく叩く。
「いいよ、別に……」
そうエリアスが言うと、カーティスはもう一度、ごめん、と呟いてからエリアスから離れる。
気が付けば人払いがされており、エドワルドは応接セットのソファに足を組んで座っていた。
「さて、王弟妃殿」
エドワルドが、意味深な笑みを浮かべながら言った。
「少し、話をしようか」
東の宮殿の空気が、わずかに張り詰めた。