窓辺で本を読んでいたエリアスは、控えめなノックの音に顔を上げた。
「お妃様、カーティス様がお見えです」
侍女の声に、一瞬だけ驚いたが、すぐに納得する。
(また、こっそり来たんだな……)
レオナードが執務に出ている間に、カーティスは時々こうして訪ねてくるようになった。
表向きは "王の婚約者" という立場になった彼は、それを最大限に利用して、こうしてエリアスの元へやってくるのだ。
「通してくれ」
短く返事をすると、すぐに扉が開かれた。
カーティスはいつも通りの軽い足取りで部屋に入り、扉が閉じられると同時に息を吐いた。
「……いやぁ、緊張した。何度来ても緊張する……」
「お前な……まあ、そのうちお前もここに住むんだろ」
「……実感わかなさすぎる……どうしてこんなことに」
カーティスはソファにどっかりと腰を下ろす。
エリアスもため息をつきながら、彼の向かいに座った。
「むしろそれは俺が聞きたい。そんな話にはなってなかっただろ?お前の父上と姉上はレオナード様に、と考えてはいたってのは聞いたけど」
「それね……まあ、色々と内査官の地位をフル活用して調べてたら王に見つかって……そこから色々と波及したわけだけど……それよりも!今度の話だよ!」
エリアスは腕を組みつつ首を傾げる。
「今後か」
「うん、ちょっと整理しようと思ってね。エリアス、今の状況がどうなってるか、ちゃんと理解してる?」
「……レオ様が狙われている。だから、俺は彼を助けると決めた」
そう答えると、カーティスは「うんうん」と頷きながら、膝の上で手を組む。少しだけ視線を落とした。
「でもさ、そもそも……この話の"本来の流れ"って、エリアスは知らないよね?」
「本来の流れ……?」
「あの小説のことだよ。ほら、僕が転生したっていう……」
「ああ……そういえば。お前がうろ覚えすぎて……」
この世界は、カーティス曰く"小説の中の世界"だ。
(親友じゃなかったら、頭おかしい奴くらいにしか思わなかっただろうな……)
だが、その内容をエリアス自身が知っているわけではない。
カーティスは「すみません」と呟くと、少し気まずそうにエリアスを見た。
「……少し思い出してさ。ハルトと王がくっつくのが小説のエンドだったように思うんだよ」
「……は?」
あまりに衝撃的な事実に、エリアスの思考が一瞬停止した。
「え、待って、どういうことだ?」
「ハルトってレオナード殿下をはじめ、めちゃくちゃモテるんだけど、最終的に王を選ぶんだ」
「じゃあ、俺は?」
エリアスが眉をひそめると、カーティスは申し訳なさそうに視線を逸らした。
「……捨てられ役のモブ?」
「…………お前は?」
「いや、僕は……あの、小説ではね……その、悪役?」
「……悪役」
カーティスは肩を竦め、少しだけ苦笑する。
「ハルトを何度か狙ったみたい。嫉妬とは思うんだよ。あまり詳細は覚えてない」
「……本当に?」
「本当に。僕だって全部覚えてるわけじゃないんだよ。細かいところは曖昧なんだ」
エリアスは今度は首を反対に傾げて、考え込む。
「つまり、お前はハルトに嫉妬したあまり、最終的に断罪される……と?」
「そういうこと」
「ふざけた話だな恋愛脳すぎる……」
エリアスは溜息を吐く。
「でも、それだけじゃないんだよ」
カーティスの声が少しだけ低くなる。
「小説では、王が狙われる暗殺事件があって、ハルトがそれを防ぐ……はずだった」
「……でも今は違う」
「そう。王じゃなくてレオナードが狙われた。これは、もう小説の通りじゃない」
「じゃあ、俺が小説を変えた?」
エリアスが尋ねると、カーティスはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「わからない。でも、未来はもう決まってるものじゃないんだよ。実際にお前はこの通り──レオナード殿下の正妃になってる」
その言葉に、エリアスは目を伏せる。
(俺が……変えた?)
確かに、"エリアス・フィンレイ" は本来、小説の中ではしがない存在だった。
それなのに今、王弟妃として王宮にいて、レオナードと共にいる。
……いや、"共に"ではないか。
レオナードに囚われ、閉じ込められ、妃教育を受け──それでも、好きな気持ちは変わらなかった。
「……俺が……変えた……」
呟くように言いながら、エリアスはそっと左手を見た。
そこには、いつの間にか馴染んだ王家の指輪がある。
最初は重く感じていたそれも、今では当たり前のようにそこにある。
(本当は……これを受け入れてしまいたい)
"王弟妃" という立場を、本当は誇りに思ってしまいたい。
レオナードの隣にいることを、当然のことにしたい。
(レオ様を好きだからこそ……ちゃんと納得したい……)
それにはレオナードを守らなければならない。
そのために、自分ができることを考えなければ。
これを成し遂げられれば何かが拓ける気がする。
「カーティス……ありがとう。少し、考えを整理できたよ」
エリアスは笑ってみせる。
カーティスはそんな彼をじっと見つめ、やがて小さく笑った。
「エリアスは、本当に変わったね」
「……そうか?」
「うん。でも、いい変化だと思うよ」
そう言って、カーティスは立ち上がった。
「そろそろ戻るよ。じゃないと、レオナード殿下が帰ってくる。あの人、僕が陛下の婚約者になったとき、いやそーーーーな顔をしたからね。どんだけエリアスにご執心なんだか。僕が帰ったらすぐ来るぞ、絶対」
「お前、何言って……」
盛大な溜息を漏らしながらカーティスは肩を竦める。
エリアスも苦笑を浮かべつつ立ち上がり、じゃあね、と手を振り出ていくカーティスを見送った。
扉が閉まると、再び部屋は静かになった。
なんとなく、その扉を見つめる。
(まさかな)
──けれどその静寂を破るように、廊下の向こうから足音が響く。
(レオ様……⁈)
エリアスは息をのんだ。
次の瞬間、扉が開かれる。
「……エリアス」
低く、いつもより少し荒い呼吸。
次の瞬間、強く抱き寄せられる。
「……っ」
驚く間もなく、唇が塞がれた。
『どんだけエリアスにご執心なんだか』というカーティスの声が頭の中に蘇る。
抗うことも、拒むこともできない──いや、しない。
(ああ、どうしたって……好きだ。今更嫌いにはなれない)
ただ、そのぬくもりに溺れるように、エリアスは目を閉じた。