201年、劉備は荊州に入った。
荊州牧は劉表である。南郡の襄陽城を居城とし、州を治めている。
劉備は家臣と生き残りの兵四千を連れて襄陽城へ行き、劉表に会った。
「曹操に負けました。どうか荊州の隅にでも置いていただきたい。助けてください」
劉備が率直に助けを乞うと、劉表は穏やかに微笑んだ。彼は142年生まれで、すでに老境にいる。
「曹操は侵略者だ。彼からこの荊州を守らなくてはならない。あなたを荊州の北部に置き、守りとしたい。引き受けてくれるか?」
劉表は偉ぶらず、逆に劉備に頼むような姿勢を取った。
劉備は劉表に好感を持った。
「私を助けてくれるだけでなく、役目を与えてくれるのですね。喜んで荊州の守備をさせていただきます」
劉備は南陽郡の新野城を与えられた。
広々とした原野に建てられた城。荊州の北の守りの要。
新野県には豊かな農地といくつかの村落があり、のどかなところであった。
「いいところだな」
城に到着し、開口一番に劉備は言った。
「劉表殿はよく荊州を守ってこられたようですね」と関羽は言った。
「ああ、そうだな。曹操が北の袁氏と争っているうちは、ここは平和だろう。やつが南下してきたら、大変なことになるだろうが」
「曹操なんて、いつかけちょんけちょんにしてやるぜ」
張飛は意気軒昂だった。
戦いに明け暮れ、流浪を重ねてきた劉備が、新野で久しぶりにのんびりとした。
新野城のそばに美しい池があった。水は透明で、魚が泳いでいるのが見える。
ひとりの老人がいつも釣りをしていた。若者がその周りに集い、楽しそうに話をしている。
「曹操は袁紹を倒し、次にこの荊州を襲ってくるにちがいありません」と若者が熱く語る。
「そうだのう」と老人は飄々と答える。
「荊州でも兵士を増やさねばなりません」と別の若者が言う。
「そうだのう」と答えながら、老人は鯉や鮒を釣り、その場で塩焼きにして、皆に食べさせていた。
「まあ食べろ。食べなければ生きていけん」
「水鏡先生、おれは酒を持ってきました」
「それはいいのう。よし、皆で飲もう」
彼らは食べ、飲み、笑いさざめいた。
劉備はその老人を、人生の達人ではないか、と思った。
「私もご一緒させてもらってよろしいですか」と劉備は言った。
「どうぞ。ちょうど鯉が焼けたところじゃよ」と老人はゆったりと答えた。
劉備は鯉の塩焼きを食べた。塩加減が絶妙であった。
「私は劉備玄徳と言います。あなたの名前を教えてもらってもいいですか」
「司馬徽徳操という」
「おれたちは水鏡先生と呼んでいるよ」と若者のひとりが言った。
「では私も、水鏡先生と呼ばせてもらうことにします」
「よしよし」
司馬徽はにっこりと笑って、酒を飲んだ。
劉備は池に通い、司馬徽と何度も会った。
「水鏡先生、こんにちは」
「劉備将軍、こんにちは」
「将軍はやめてください」
「しかし劉備殿は、将軍ではないか」
「先生の前では、ひとりの人間でありたいのです」
「よしよし。では、玄徳と呼ぶことにしよう」
劉備は釣りをするようになった。
司馬懿の隣で釣り竿を出す。
水鏡先生は釣りの名人だった。劉備が一匹釣る間に、五匹釣った。
「先生はどうしてそんなに釣りが上手なのですか」
「魚の気持ちになってみればよいのじゃよ。そうすれば釣れる」
「魚の気持ちになどなれません」
「なれんかのう」
「私は人間ですから」
「玄徳は軍人だからのう。隠しているつもりでも殺気があるのじゃ。それでは魚が逃げてしまう。もっと心静かになれ。そうすれば釣れる」
劉備は考え込んでしまった。
殺気など出しているつもりはなかったが、水鏡先生にはそう見えるらしい。
おれは軍人であるべきなのか、心静かに生きるべきなのか。
劉備は新野で長く暮らした。
甘夫人が身籠り、男の子を生んだ。
「この子がお腹の中にいたとき、北斗七星を飲み込む夢を見ましたわ」
「そうか。では、この子を阿斗と名付けよう」
阿斗は幼名である。長じて劉禅と呼ばれるようになる。
劉備は司馬徽と付き合いつづけた。
207年、阿斗が生まれた年、彼は池の畔で言った。
「水鏡先生、私はやはり軍人です。乱世から目をそむけることはできません。戦って、この世に平穏を取り戻したいのです」
「そうだろうな。あなたはやはり劉備将軍だ」
「将軍はやめてください、先生」
「いや、将軍と呼ばせてもらう。劉備将軍、臥龍に会いに行きなさい」
「臥龍?」
「わしがつけたあだ名じゃよ。本名は諸葛亮孔明という。この近くの庵で、弟と一緒に晴耕雨読して暮らしておる。彼があなたの軍師となれば、将軍は曹操と戦えるようになるだろう」
「それほどの人なのですか?」
「若いが、才能がある。その才を発揮する場がなく、欝々としておる。彼を世に出してやってほしい。臥龍は少年時代、徐州琅邪国でひどい目にあったようだ。世の中を恨んでおる。心中に鬱屈がある。彼を救えるのは、劉備将軍だけだろう。そして、あなたを飛躍させることができるのは、臥龍だけであろう」
「琅邪国。曹操が大虐殺をした地……」
司馬懿はそれには答えず、竿を立て、鮒を釣りあげた。
劉備は、諸葛亮に会ってみようと思った。