荊州を南北に走る襄陽江陵街道は、大渋滞になっていた。
劉備軍の撤退路だが、曹操を怖れる住民たちの避難路でもある。
荊州民たちは、曹操の徐州大虐殺のことをよく知っていた。自分たちも虐殺されると思った人は少なくなかった。彼らはパニックに陥り、南へと逃亡した。
人々の波に巻き込まれ、劉備軍の逃走は遅れた。
「これでは漢津に到着する前に、曹操軍に追いつかれてしまう」と劉備は焦った。
長坂橋を渡ったとき、張飛は歩みを止めた。
「兄貴、おれはこの橋で曹操軍を迎撃します。先に漢津へ行ってください」
劉備は川と橋を眺めた。橋を一点防御すれば、しばらくは持ちこたえられそうだった。
「わかった。頼むぞ、張飛」
五千の歩兵を張飛に与え、劉備は先を急いだ。
劉備軍を追う曹純の騎兵隊も、人民の大渋滞に遭遇し、容易には進めなくなっていた。
「曹純様、どうします。殺して進みますか?」と副官がたずねた。
「いや、荊州はすでに降伏しているのだ。民を殺戮してはいかん」と曹純は答えた。
「しかし、これでは劉備軍に追いつけません」
「では、殺すぞと脅せ。いいか、脅すだけだぞ。けっして殺してはいかん」
「わかりました」
副官は剣を高くかかげ、荊州民に向かって叫んだ。
「道を開けろ。開けねば殺すぞ!」
そのひと声で、民は「やっぱり曹操軍は虐殺をする」と確信し、街道から逸れて逃げ惑った。
曹純は複雑な気持ちになった。曹操様の評判を落としてしまった。しかし、追撃にはどうしても必要なことだったのだ。
「進め! 劉備に追いつくのだ」と指揮官は言った。
騎兵隊は南下しつづけた。
張飛は橋の南に兵を整列させた。
「敵は必ず橋を渡る。弓矢で敵を削れ。橋を渡ったやつらは、皆殺しにするぞ」
全兵士に弓を持たせて、そう指示した。
やがて、敵騎兵の姿が橋の向こうに見えてきた。曹純隊である。
「引きつけろ。敵が橋の上に来たら、矢を放つのだ」
張飛は騎兵隊を見つめた。
先頭集団が渡りかかった。
「いまだ、発射!」と叫んだ。
曹純は唖然とした。
劉備軍に待ち伏せされていた。
橋の上で弓矢に射られて、部下たちがバタバタと倒れていく。小癪な!
「くそっ、急いで渡れ! 駆け抜けるのだ!」
曹純は叱咤して、橋の南にいる敵歩兵を倒そうとした。
騎兵対歩兵では、騎兵の方が圧倒的に有利なのが、軍事上の常識である。橋を渡りさえすれば、勝てるはずだと思った。
ところが、敵の中に虎髭の大男がいて、ものすごい強さを発揮した。ひとりで曹純配下の騎兵のほとんどを屠っている。常識はずれの豪傑、張飛のしわざだった。
「おれは劉備の義弟、張飛益徳。命がいらないやつはかかってこい!」
その叫び声を聞いて、曹純は進路を変えることにした。劉備の下に恐るべき豪傑が三人いると聞いている。張飛はそのうちのひとり。部下を超人のような男に殺されたくはなかった。
「ここはだめだ。別の道へ行くぞ!」と曹純は言った。
曹純隊が退いていくのを見て、張飛はひと息ついた。
これで時間は稼げた。命じられた仕事はした。
「橋を焼け」と彼は部下に命じた。
曹純は別の橋を探した。
張飛にはやられてしまったが、逃げ帰るわけにはいかない。まだ四千の騎兵が残っている。
長坂の東で橋を見つけ、曹純隊は南下した。
また劉備軍らしき歩兵隊を発見した。その歩みは遅い。
「攻撃しろ!」と曹純は命じた。
曹純隊に追いつかれたのは、趙雲の隊だった。彼は劉備の妻子の守備を命じられていた。
麋夫人は新野ですでに病死していたので、趙雲とともにいるのは、甘夫人と阿斗。彼はふたりを護衛しながら、漢津をめざしていた。
「敵騎兵が迫ってきます!」と趙雲の部下が叫んだ。
「あわてるな。おまえたちは奥方様と若君を守っていろ。敵は私ひとりでかたずける」
趙雲は反転し、たった一騎で曹純隊に立ち向かっていった。彼も超人的な武力を持っている。趙雲の周りで血しぶきがあがり、たちまち百人、二百人と曹純の部下は死んでいった。
「私は常山の趙子龍だ。ここは通さぬ」
その名を聞いて、曹純はついに戦意を失った。
三人の豪傑の名は、関羽、張飛、趙雲。
そのうちのふたりとぶつかってしまったのだ。
「劉備軍は異常だ」と彼はつぶやいた。
撤退しよう。やつらと戦っていたら、全滅する……。
曹純隊が退き、劉備軍は漢津で集合することができた。
関羽は船を集め、待っていた。
全軍が船に乗った。
漢水を航行し、大河長江との合流点、夏口に到達。劉備はそこで劉琦に再会することができた。
曹操軍は襄陽城にとどまり、それ以上追ってはこなかった。
曹操は襄陽で荊州の占領統治をしなければならなかった。すぐにさらなる南下をすることはできなかったのである。