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第33話 魯粛子敬

 劉備は劉琦から夏口城を与えられた。

 そこが新野にかわる彼の居城となった。


「弟が戦わずに荊州を曹操に明け渡してしまうとは、完全に予想外でした。こんなことなら、命を賭けてでも私が荊州牧になるべきだった」と劉琦は言ったが、後の祭りである。

「劉琦殿、力を合わせて荊州を取り戻そう。いつまでも曹操の思いどおりにはさせん」と劉備は答えた。


 長江北岸の夏口城から間諜を放ち、曹操の動きを探った。大量の軍船を集めていることがわかった。

「曹操は江夏郡を除く荊州を占領しました。次は揚州を制圧しようとしているのでしょう」と孔明は言った。

 揚州は長江の水運を利用して栄えている。

 そして、孫権は強力な水軍を持っている。

「曹操も水軍を持とうとしています。それも孫権様の水軍を圧倒するような大水軍を。揚州軍を降伏させれば、曹操の覇業は達成されたようなものです。それを……」

「阻まなくてはならん」

 劉備は瞑目してつぶやいた。


「そのとおりです。人民を虐殺するような男に天下を渡すわけにはいきません。しかし、殿と劉琦様の力だけでは、曹操に対抗することはできません。なんとしてでも、孫権様に戦ってもらわなくてはなりません」

「おれが孫権に頼めばよいのだろうか」

「いいえ、殿と孫権様は、対等な形で同盟を結ぶのです。そうでなくては、殿は飛躍できません」

「しかし、おれは単なる城主で、孫権は揚州の主だ。どう考えても、あちらが上じゃないか」

「そこはうまく交渉するしかありませんね」

「孔明」

 劉備は軍師の瞳を見た。

「はい。私が交渉します」

 孔明はにこりと微笑んだ。


 だが、孔明はすぐには動かなかった。機を見ていた。

 やがて揚州から、魯粛という男が夏口城にやってきた。


 魯粛子敬は172年、徐州下邳国の豪族の家に生まれた。

 少年の頃に黄巾の乱が勃発した。天下を安らかにしようと一念発起して、剣や弓の練習をし、熱心に兵法を学んだ。その熱意は、周囲の者たちを驚かせるほどだった。

 二十二歳のとき、魯粛は曹操の徐州大虐殺を目の当たりにした。曹操を心の底から憎み、殺してやりたいとすら思ったが、彼には力がなかった。曹操に抗戦したのは、他州から来た劉備だった。

 その後、魯粛は揚州九江郡を領有する袁術に仕え、官吏として能力を発揮した。しかし、民から税を搾り取る袁術のやり方に失望して辞職し、故郷に帰った。この頃、江東の小覇王と呼ばれる孫策や彼の軍師、周瑜と知り合っている。


 袁術は皇帝を自称したが、暴飲暴食がたたって病死した。

 孫策は英雄的な戦いをして、急速に勢力を伸ばし、揚州を支配するほどになったが、倒した豪族の家臣に恨まれ、暗殺された。

 一方、魯粛は徐州で暮らしながら、天下の情勢を眺めていた。憎い曹操が力を伸ばし、袁紹を倒して天下第一の勢力を得るのを、歯噛みしながら見ていた。相変わらず、魯粛には力がない。

 無力感に苛まれていたとき、周瑜から孫権に仕えないかと誘われた。孫権は孫策の弟で、彼の後継者である。


「孫権様は、曹操と戦ってくれるだろうか?」と魯粛は周瑜にたずねた。

「それはわからないが、曹操と戦えるのは、この国で孫権様しかいないだろうな」

 その言葉を聞いて、魯粛は孫権に仕官する決意をした。

 孫権は魯粛と面会し、その非凡さを認めた。魯粛は揚州の重臣のひとりになった。


 曹操が荊州に侵攻し、劉琮を降伏させたとき、魯粛はついにこのときが来た、と思った。

 曹操と対決すべきときが来たのだ。

 しかし、相手は荊州を併呑し、九つの州の主となった大敵である。

 孫権はまだ態度を明らかにしていない。曹操と戦うとも、降伏するとも言っていない。

 魯粛は断じて戦うべきだと考えていたが、張昭などの古くからの孫家の重臣は、とうてい抗し得ないと見て、降伏すべきだと主張し始めていた。


 魯粛は連携できる相手として、劉備と劉琦に注目した。

「江夏郡は、曹操に降伏していません。ようすを探ってまいります」と彼は孫権に言った。

「頼む」と揚州の主は答えた。

 孫権は孫策から「揚州を奪おうとする者が到来したら、勇気を持って戦え」と遺言されていた。

 江夏郡との同盟は、孫権にとってもひとつの選択肢であった。


「劉備様は、どうして曹操に降伏しないのですか」

 魯粛は夏口城で劉備にたずねた。

「天下で曹操と戦えるのは、おれだけだからだ」

 劉備は、揚州から来た使者、魯粛を挑発してやろうと思い、わざと大口を叩いた。

「おかしなことを言われる。劉備様は一城の主でしかないではありませんか。曹操に対抗できるのは、わが主、孫権様ただひとりです」

「孫権殿に戦意はあるのか?」

 あります、と魯粛は即答できない。孫権はいまだ、戦争か降伏かの決断を保留している。


「私は一介の家臣です。殿のお考えをすべて知っているわけではありません」

「おれは、たったひとりでも曹操と戦うつもりだ。だが、孫権殿と同盟できるなら、心強いと思っている」

 魯粛は、曹操と戦うと断言した劉備を好ましいと思った。かつて徐州で虐殺者曹操と戦った実績もある。

 魯粛個人としては、劉備と連携したかった。しかし使者としては、簡単にうなずくわけにはいかない。劉備と同盟することは、曹操に敵対することと同義なのである。 

「劉備様のお気持ちはわかりました。揚州へ帰り、主に報告させていただきます」


「待ってください」

 劉備のそばで話を聞いていた孔明が、口をはさんだ。

「殿、私は魯粛様とともに揚州へ行き、孫権様に会いたいと思います。よろしいでしょうか」

「おう。おれの使者として行ってくれ。魯粛殿、かまわんかね?」

 魯粛はいぶかしげに孔明を見た。

「この方は?」

「諸葛亮孔明という。若いが、おれの軍師だ」

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