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第53話 外交

 孫尚香は伊籍と関平とともに、揚州へ行くことになった。

 伊籍は外交の担当者で、関平は護衛役。

 彼女たちは巴郡の江州から船に乗り、長江を下った。

 途中、公安に寄港した。船に孫乾が乗り込んできた。彼は徐州時代から、劉備に交渉役を任されてきた男である。


「奥方様が正使で、私たちは付き添いのようなものです」と孫乾は言った。

「えーっ、孫乾様や伊籍様は、外交の専門家ではないですか。私は兄とちょっと話をするだけですよ」

「孫権様と少し話すだけのことが、私たちにはとてもむずかしいのです」

「でも……」

「奥方様、よろしくお願いします。殿と孫権様の結びつきを強くするのは、あなたにしかできないことなのです」

 孫乾はうやうやしく頭を下げた。


 長江は巨大な河川で、川幅が広く、とてつもなく長い。

 船は益州から出て、荊州を通過し、揚州へ入った。


 孫乾と伊籍の話は面白く、尚香は退屈しなかった。彼らは多くの情報を持っていた。

「曹操は涼州を制圧しました。次は漢中郡を狙っているようです」

「張魯はどうするのでしょうね。五斗米道の男性教徒は、全員兵士であるとも聞きます。漢中郡は曹操と戦いますかね」

「張魯の弟、張衛は優秀な指揮官らしいですし、戦争になるのではないですか」


 尚香は、ときどきふたりの話に割って入った。

「漢中郡って、益州の北部ですよね。曹操に取られたら、大変なことになりそうですね」

「そうです。首に刃を突きつけられたような状態になります。怖ろしいことです」

「殿は曹操とは対決するおつもりですからね。そのためにも、孫権様とは仲よくしておかねばなりません」

 ふたりの外交官は、周りに人がいないのを確かめてから、小声で語った。


 関平は物静かな男だった。尚香とは、劉備らの前で試合をした縁がある。

 甲板の上でひとり黙々と剣の素振りをしたり、春秋左氏伝を読んでいたりした。

「その本、面白いのですか?」と尚香がたずねると、彼は書物を閉じた。

「父の愛読書なのですが、正直に言うと、私にはあまり面白くありません。しかし私は父を尊敬しているので……」

 関平は空を見上げた。

 関羽は夫の義弟で、偉大な武人らしいが、尚香はその人となりをよく知らなかった。


 建業に着いた。

 尚香一行は孫権の居城の貴賓室に通され、手厚くもてなされた。尚香にとっては、慣れ親しんだ城だった。

 到着の翌日、彼女は孫権に会った。

 揚州の主は、少しやつれていた。

 孫権は九江郡の合肥を何度か攻めたが、そのたびに曹操の武将、張遼らに撃退されていた。そのことを孫乾や伊籍から聞いて、尚香は知っていた。


「尚香、元気か?」

「はい。権兄さんは、少し疲れているように見えます。だいじょうぶですか?」

「そう見えるか? 私はなんともないぞ」

 孫権は笑った。尚香には、無理に微笑んでいるように思えた。

 兄妹はたわいもない話をしばらくした後、本題に入った。


「玄徳様から、言伝を預かっています。孫権殿とは、これからも親しくしていきたい。その証として、江夏郡を差し上げる、とのことです」

 尚香がそう言った途端、孫権は不機嫌になった。

「劉備殿は一州を得たのに、私には一郡しか与えないというのか」

「玄徳様は、戦って益州を得たのです。兄さんは、戦わずに江夏郡をもらえるのですよ。うれしくないのですか」

「うれしいはずがない。周瑜が生きていたら、荊州も益州も、私のものになっていただろう」

 孫権の表情は、かなり剣呑だった。

 尚香は、自分の使命が相当にむずかしいと悟った。

 劉備と孫権は、実は潜在的な敵同士。その同盟は、曹操に対抗するためにやむなく結ばれているものでしかない……。


「兄さんは、江夏郡だけでは満足しないのですか」

「荊州の半分は欲しい。江夏郡、長沙郡、桂陽郡……」

「それは無理です。玄徳様は、益州と荊州の総力を挙げて、曹操と戦おうとしているのです」

「尚香、すっかり劉備殿の味方になってしまったようだな」

 孫権の口調が荒々しくなった。

 尚香は、そのとおりです、と口走りそうになったが、かろうじて思いとどまった。自分は正使なのだ。

「わたしは兄さんと玄徳様、両方の味方です。双方がよい道を歩めるよう努めたいのです」

 孫権は、妹が商人のような笑みを浮かべているのに気づいた。

 こいつはただの使者なのだ、と思った。


 孫権も妹に外交的な回答をした。

「尚香、江夏郡はありがたく頂戴する。劉備殿に深く感謝すると伝えてほしい」

「はい、承りました。それともうひとつ……」

「なんだ?」

「曹操を攻撃してください。わたしたちの共通の敵です」

「それならやっている。合肥がなかなか取れないのだ」

 たかが県ひとつ取れないなんて情けない、と尚香は思ったが、口には出さなかった。


 建業滞在中、孫乾と伊籍は、魯粛や呂蒙などの重臣たちと交渉を重ねた。

 魯粛は孫劉同盟を重視していたが、呂蒙や陸遜は対劉備強硬派だった。

「友好関係を維持するのは、容易ではないですね」

「まったくです。揚州の武将たちは怖いなあ」

 ふたりはぼやき合っていた。 


 関平はひたすら尚香に付き従い、周りに目を光らせていた。

 彼女は終始、劉備の使者としてふるまった。自分でも驚くほど、彼の利益のためだけを考えて行動していた。

 わたしはすっかり玄徳様の妻のなったんだなあ……。


 孫尚香、孫乾、伊籍、関平は一か月ほど揚州に滞在した後、再び長江の船に乗った。

 今度は大河をさかのぼった。孫乾は公安で降りた。

 残る三人は江州まで水路で行き、そこから陸路で成都に戻った。 

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