馬車が動き出して一時間ほど経ったころ、あたしはお尻をもぞもぞ動かして座り直した。座席が柔らかいので痛いというわけではないが、車輪が小石を踏んだりするとコツンとした衝撃がリアルに伝わってくる。それがなんだか居心地悪い。
「馬車って結構、振動が来るんだねぇ」
現実世界の自動車とは全然違うなと思った。
正面に座るセラディスは、窓の外を眺めていた顔をあたしに向けて、ふわりと優しく微笑んだ。
「そうですね。聖都の外れに出ると道路の整備もまばらですから。マナシア、あまり長旅には慣れていないでしょう? 昨日になって突然、一緒に行きたいなんて言うので驚きましたが……聖都アウレリアまで耐えられそうですか?」
「へーき、へーき。あたし馬車なんてほとんど乗ったことないから(ほんとは初めて)、この揺れるのも楽しいなって思っただけ」
「そうですか。それならいいのですが」
出発して一時間で下ろされては堪らない。今なら別の馬車に乗って簡単に司祭館まで帰れてしまうこともあって、セラディスが『やっぱり一人で行くのでマナシアは帰ってください』と言い出さないかひやひやした。
実際のところ、慣れない馬車の振動はちょっと辛かったけれど、それよりもセラディスとこうして向かい合って座っていられて、それが長時間続くという事実の方が何倍も嬉しかった。
現にあたしは出発して以降、セラディスの綺麗な横顔ばかり見ている。正面じゃなくて横顔なのは、セラディスが窓の外ばかり見ているからだけど。
ううん、それくらいの方がちょうどいい! セラディスが正面を向いていたら、あたしはちょっと遠慮ゴコロが働いちゃう。横を向いてくれてるからこそ、存分に盗み見られるというものだ!
たとえ尻が痺れても、このひとときのためなら耐えられる。
窓から見える風景が、聖都ルミナスの石造りの家々から、城門を経て、ひらけた草原に切り替わる。
「街道に出ましたね」
「カイドウ?」
「町と町とを繋ぐ主要道路のことですよ。聖都アウレリアまでは街道を通って行きます」
あたしは目新しい景色に身を乗り出す。
緩やかな丘は牧草地なのか、遠くに牛の姿が見えた。セラディスが跳ね上げ窓を少し開けてくれた。野草の青い匂いのする風が吹き込んできて、頬を撫でる。
聖都アウレリアまでは馬車で一日半かかるとの話だった。だから今夜はアルマータという途中の町で一泊し、明日の朝また出発するらしい。聖都アウレリアに到着するのは明日の夕方ごろだ。
帰りも当然、同じだけの時間がかかる。この出張は行き帰り含めて七日間の予定だから、聖都アウレリアに滞在するのは二日目の夕方から六日目の朝まで。
つまり約三日半だ。あたしがユダリスク司教から、セラディスの貞操を守り切らなければいけない期間は。
吹き込む風にきらきら輝く横髪をなびかせている彼を見て、あたしは再度、心の中で決意する。
この美しいものを穢させてなるものか!
道中、馬車は定期的に小さな町々で休憩を取りながら進んでいった。
御者の男と三人で食堂に入って昼食をとったり、通りがかりの教会で短く祈ったり、屋台で鈴カステラみたいな焼き菓子を買ったり、地元の子どもたちが「あ、神父様だ」と手を振ってくるのに応えたり。
セラディスはそういうとき、面倒な顔ひとつせず、必ず微笑んで手を振り返す。その笑顔を見るたびに、胸がぎゅっと締めつけられるような、くすぐったいような気持ちになる。
そして西の空が赤く熟れるころ、宿泊予定の町アルマータに到着した。
町は想像よりもこぢんまりとしていたけれど、廃れたような雰囲気はなく、町の中心にある市場には夕方でも人波と活気があった。
通りすがりの人たちが遠慮がちに好奇の目を向けてくる。別の町の神父夫妻が立ち寄ることなど、あまりないのかもしれない。
宿屋に入ると、人の良さそうな白髪まじりの店主の男が、やや恐縮気味に話しかけてきた。
「あの……神父様。お部屋のことなのですが、あの、お若いご夫妻ですし……シングルルームを二部屋、ご用意いたしましょうか?」
「えっ、ダブルルームじゃな――」
反射的に反論しかけたあたしを、セラディスが咄嗟に背中に隠して、落ち着いた声で言った。
「できればツインルームでお願いします」
「あっ、はいっ。承知いたしました」
店主が慌てて準備に向かっていくのを見送りながら、あたしはがっくりと肩を落とした。
ダブルベッドじゃないのかぁ……。
あの店主、あたしたちを25歳未満の夫婦と察してシングルを提案するなんて……さすが接客業の者!
そして店主の提案とあたしのダブルルームの希望との折衷案であるツインルームを瞬時に依頼したセラディスもなかなか!
あれ、セラディスってだんだん、あたしの扱いに慣れてきちゃってる? これってあたし的に良いことなのかなぁ?
けど、まあ……同室ってだけでもいいか。同じ空間にふたりきり、しかも今夜はエリオードもいない。完全なる、ふたりっきり。
えっ、えっ……これってもしかして、もしかして?
いつもの司祭館じゃ絶対に得られない状況。邪魔者ゼロ。セラディスの貞操を守るはずが、あたしがオオカミになっちゃうかも!?
勝手にひとりで盛り上がっていたところに、セラディスの声がかかった。いつの間にかツインルームに案内されていたようで、店主も去ったあとで、あたしたちはそれぞれのベッドに腰かけてひと息ついていた。
「マナシア、夕飯を食べに行きませんか? 御者の彼が先ほど、お勧めの店を教えてくれたんです」
「う、うん! もちろん! 行こ行こ!」
思わず跳ねるように立ち上がる。夫婦水入らずを邪魔せず店だけ教えてくれた御者のファインプレーにも拍手喝采を送りたい。
あたしは心が浮足立つのを隠すどころか、あけっぴろげにセラディスの腕に飛びついた。
今夜は何か起こるかもしれない。
いや、起こすしかない、かもしれないッ……!