目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第27話:ユダリスク司教

 馬車は聖都アウレリアのアーチ型の城門をくぐる。城壁の厚さ分だけ距離のある門を抜けた瞬間、空気の温度が一度上がった。


 舗装された石畳の通りには、老若男女、多くの人々が行き交っている。夕飯の買い出しや家路につく者たちの声が、あちこちから響いていた。

 石造りの店々の窓には明かりが点き始めていて、肉や魚を焼く香ばしい匂いや香辛料のスパイシーな匂いが、跳ね上げ窓の隙間から風に混じって鼻をくすぐる。

 路傍の屋台では、お使いに来たらしい子どもたちが明るく笑い、テラス席でひと足早くディナーを楽しむ大人たちは、談笑しながらグラスを傾けている。


 馬車はそのまま賑やかな通りを中心地へと進んでいった。


 やがて喧騒から外れた住宅地に入る。アパルトマン風の背の高い建物が道路の左右に立ち並び、壮観だった。先ほどの通りより高級感があって、道行く人の身なりも洗練されている。

 かと思えば不意に遠くから、鍋底を叩くような音と子どもを叱る女性の声がかすかに聞こえてきて、あたしは少し笑ってしまった。

 聖都ルミナスも大きな町だが、いい意味でこの町はより雑多で、騒がしくて、華やかさと素朴さとの両方を絶妙なバランスで併せ持つ都会的な町だと思った。


 馬車は、とある屋敷の前で停まった。


「この町の司祭館のひとつです。外部から来た聖職者の宿泊所になっています」


 セラディスの言葉に、あたしは屋敷を見上げる。ルミナスの司祭館と造りがよく似ていた。


 あたしたちが馬車を下りるのとほぼ同時、玄関からメイドがひとり、慌てた様子でアプローチを駆けてきた。


「ようこそ、お越しくださいました。セラディス様、マナシア様」


 彼女はあたしの持っていた旅行鞄を笑顔で引き取ると(セラディスの鞄も持とうとしてくれたがセラディスが柔らかく辞退した)、あたしたちを屋敷の中へと案内してくれた。


 中もやはり、ルミナスの屋敷に似ていた。同じ建築家が似たような司祭館をあちこちに建てているのかもしれない。


 二階へ上がったあたしたちはそれぞれ、回廊のちょうど対角線上にある部屋へと通された。同室でも隣同士でもないのがやや不満だったが、25歳以上になるまでという例の教義に従った部屋割りなのかなと思った。


 室内もおおむねルミナスと同じだった。ひとつ違うのは、出入り口とは別のドアがあるということ。

 開けてみると、水回りだった。つまりトイレと洗面台とバスルーム。どこの誰とも知らない――少なくともあたしは知らない――聖職者とトイレやシャワーを共有しなくて済むのはありがたかった。


 部屋の窓からは、夕闇に包まれ始めた町並みが見えた。家々の屋根の向こうに、先ほど城外から見えた高い尖塔が、空を裂くようにそびえている。


 ノックの音がした。返事をしてドアを開けると、セラディスだった。


「ユダリスク司教から夕食のお誘いを受けています。あとで迎えにきますので、準備しておいてくださいね」

「うん、わかった」


 いよいよだ、と思った。セラディスを狙うエロオヤジとの初対面。

 田舎女だと舐められるわけにはいかない。


 セラディスが去ったあと、あたしは旅行鞄を開いて、今夜の衣装を取り出した。

 淡いベージュのロングドレスは、立ち襟と七分袖で肌の露出を抑えつつ、袖口と裾の刺繍が品のある華やかさを添えている。神父の妻の夜のお呼ばれコーデとしては申し分ないだろう。


 それをハンガーにかけ、ドレッサーの前に座って化粧を整える。瞼に淡くラメを乗せ、頬に赤みを足し、唇には少しだけ淡い色のリップを塗った。

 鏡に向かって微笑んでみる。うん可愛い。イイ感じ。


 窓の外がすっかり暗くなったころ、再びノックがあり、セラディスが迎えにきた。


「綺麗ですね、マナシア」


 そう言ってくれて嬉しかったけれど、彼の顔には疲れが滲んでいた。


 司祭館の玄関を出ると、迎えの馬車が待っていた。あたしたちが昨日から乗ってきた遠乗り用の馬車よりいくらか高級感のある装飾で、扉にはアレオン教の持ち物であることを示す黄金の太陽の紋章が浮き彫りされていた。


 馬車に揺られて辿り着いたのは、司祭館よりさらに大きな屋敷の前だった。降りると、整列した数名の使用人たちがこうべを垂れて出迎えてくれた。あたしはセラディスの隣を歩きながら、なんだか恐縮してしまった。


 案内された食堂は広かった。天井には巨大なシャンデリア。壁には彩り豊かな宗教画と金刺繍のタペストリー。窓には分厚いカーテンが引かれ、キャンドルの明かりが室内を柔らかく包んでいる。


 長テーブルの上には金縁の皿と銀のカトラリーが三人分、美しく並べられていた。

 あたしたちは、長テーブルの出入口側の長辺に横並びで用意された二席を勧められて腰かける。向かいの窓側の長辺に用意された一席には、主催であるユダリスク司教が座るのだろう。


「なんか、緊張するね……」


 セラディスに顔を寄せ、小声で囁いたとき、出入口の扉が開いた。


 現れたのは、長身の美丈夫だった。黒曜石のような髪が背中まで流れ、漆黒に仄かな紫を混ぜたような瞳が、気高い存在感を放っている。表情は柔らかいのに、どこか有無を言わせぬ威厳があった。

 着ている服はセラディスと同じ神父服で、しかし少しだけ違うのは、黒い生地に赤紫の縁取りがされているところだ。


 誰だろうか。ユダリスク司教の弟子、とか?

 セラディスを狙うだけあって綺麗な男が好きなんだな。気持ち悪い。


 などと思っているとセラディスが立ち上がったので、あたしも慌てて立ち上がる。


「ユダリスク司教……本日はお招きいただき、ありがとうございます」


 セラディスの口から出た名前に、あたしは思わず目を見張った。


 え……この人がユダリスク司教本人? エリオードはオッサンって言ってなかったっけ?


 確かに年齢はセラディスよりいくらか上に見えるが、オッサンと言うには、はばかられる。まるで絵画から飛び出してきたかのような美しさに、あたしは動揺を隠せない。


「マナシアだね。ようこそ、遠路ご苦労だったね」


 ユダリスク司教は、セラディスを超える――そして恐らくエリオードさえ超える――長身をあたしに合わせて少しかがめながら微笑んだ。その善なる表情と穏やかな物腰に、あたしは図らずもドキリとしてしまった。


 ちょっと待ってよ……超絶美形なんだけど。


 その後、食前の祈りから始まった夕食は、驚くほど和やかだった。


「ルミナスでは、何か困ったことはないかい?」

「いえ、とても快適に……皆さんに良くしていただいています」

「それは良かった。セラディス、君はよく無理をするから心配だよ」

「……恐縮です」


 あたしはエリオードの語った言葉と、目の前の美しい聖人とを比べては、疑問符を浮かべていた。


 本当にこの人が、セラディスを性的な目で見ていたりするのだろうか……?


 ユダリスク司教はセラディスに過剰に接近することもなければ、手を触れることもない。むしろ、そういう意味ではエリオードのセラディスに対する距離感の方がよほど異常だ。

 それにユダリスク司教は、妻であるあたしに対してもいたって紳士的だった。セラディスをものにしたいなら、あたしの存在は邪魔だろうが、あたしを遠ざけたいような雰囲気は一切感じない。


 すべて、エリオードの勘違いではないか。

 コース料理も終盤を迎えるころには、あたしはそんなふうに結論づけていた。


 会話と食事は最後まで心地よく進み、夕食会は何事もなく終わった。


 帰りの馬車の中、あたしはうっすらとアルコールが回って気分が良かった。


「楽しかったね、セラディス。ユダリスク司教っていい人だね」


 声をかけると、セラディスは微笑んだ。しかしその瞳にはやはり、疲れの色が残って見えた。

 そして彼の反応はどこか、心ここにあらずという感じがした。


 やっぱり昨日、あたしのせいでよく眠れなかったのかな……。


 昨夜のことが思い出されて、浮ついていた気分が一気にしぼむ。


 せめて今夜はぐっすり眠ってほしいと思った。あたしと別室なのだから、安心して眠れるだろう。

 流れるようにそう考えて、勝手にひとりで落ち込んだ。


 セラディスがどうして"心ここにあらず"だったのか、ちゃんと考えもしないで。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?