司祭館に帰り着いたのは午後九時ごろだった。周囲の家々の窓は、パッと見た感じ半分ほどが消灯していた。
「おやすみなさい、マナシア」
セラディスは短くそう告げると、それ以上は何も言わずに自室へと去っていった。表情は変わらず穏やかだったが、やはり疲れて見えた。
大丈夫? と声を掛けたくなったけれど、それよりもひとりにさせてあげるほうがいいと思った。
あたしも自分の部屋へ戻り、ドレスを脱いでバスルームへ向かった。シャワーの取っ手をひねり、温かい湯を頭から浴びると、旅の疲れや、胸に僅かにつかえた寂しさのようなものが、和らいでいく気がした。
シャワーを終えて、ドレッサーの前で濡れた髪を拭いていると、部屋のドアがノックされた。
いつもなら、セラディスが来たのではと期待するところだが、今日は別の誰かだろうと迷わず思った。
タオルを置き、髪を手櫛で整えてドアに寄る。
「はい。どなたです?」
今日会ったばかりのメイドが名乗ったのでドアを開けてみると、メイドはあたしの濡れ髪を見て、恐縮そうに頭を下げた。
「マナシア様、夜分に失礼いたします。お電話が入っておりますが、いかがいたしましょう」
「電話? 誰から?」
「それが、男性なのですが、名乗られないのです。とにかく急ぎマナシア様を出してほしい、と」
「ふーん……」
なんだろうな、と怪訝に思う。あたしあてに電話が来るなんてこと初めてだ。しかも相手はあたしがルミナスの司祭館でなく、ここにいることを突きとめて掛けてきている。
「お出になりますか?」
メイドの口調からは、断ってもいいですよという雰囲気を感じたが、あたしは頷いた。メイドをそのまま少し待たせて、バスローブの上に羽織を重ねる。
メイドはあたしを一階の玄関ホール近くの応接室に案内した。ランタンの明かりが灯された部屋の壁に、黒く艶めく電話機が掛けられており、その下の台にはメモ帳やインク瓶などが置かれている。
台の上にはそれらとともに、通話中らしい受話器が置かれていた。あたしはそれを手に取り、耳に当てる。
「あの、もしもし」
「マナシアか?」
声ですぐにわかった。
「エリオード!? なに、電話なんか掛けてきて」
「オイ! 俺の名前をあまり大声で言うな」
「はあ?」
「俺がそこへ電話したって、バレたくないんだ」
誰に、とあたしが口に出す前に、「ユダリスクの息のかかったヤツらに」とエリオードはつけ加えた。
あたしは応接室を見回す。もちろん誰もいないし、窓も開いていない。あたしを案内してくれたメイドも、あたしが受話器を取る前に一礼して去っていった。
「セディは? 今、近くにいるか?」
「いや、近くにはいないけど。セラディスと話したいってこと? さっき『おやすみ』って言って部屋に入ったし、もう寝てるかもしれないよ?」
セラディスが疲れていることはわかっていたので、ここで電話口に呼び立てていっそう疲れさせたくはなかった。なにせ通話相手はあのエリオードなのだ。
上手く断ろうと決めて口を開きかけたあたしに、エリオードは妙に焦った声で言う。
「本当に寝てるか、確認してきてくれ」
「え、なんで?」
「いいから早く見てきてくれ、頼む」
あたしはうんざりしながら答えた。
「意味わかんない、どういうこと? 寝てるだろうし、鍵も閉めてるだろうから、見るって言ったって」
寝ているのなら起こしたくはない。
「部屋の中にいるか確認してほしいって意味だ」
「あんた、ちょっと過保護すぎじゃない? お母さんじゃないんだからさぁ。もしかして、セラディスが夜遊びするとか思ってるの?」
軽口のつもりだった。でもエリオードの返事は、重かった。
「マナシア、お願いだ。あいつはユダリスクに呼び出されたら断れない」
「もう呼び出されたよ。それで、ふたりで夕食をご馳走になってきた。ねえ、エリオード。なんていうか……心配しすぎかもしれないよ? ユダリスク司教はいい人だったし、セラディスを変な目で見てるようには――」
「だから怖いんだ! 悪人がいつも悪人面してるわけないだろ。あいつは何もかもわかってやってる。あいつの怖さが伝わらないから、誰も警戒しない。なあお前! マナシア! いいから何も考えずにセディの部屋へ行ってくれ! セディを守ると言っただろう!?」
電話越しでも伝わってくる必死さと気迫に、あたしは何も言えなくなった。
「……わ、わかったよ、見てくる」
いろいろ納得はいかないが、それでエリオードの気が済むのなら。
受話器を台の上に置き、あたしは急ぎ足で階段を上がった。
セラディスの部屋の前に立ち、耳を澄ませてみたけれど、物音はしなかった。ドアの隙間からも明かりは漏れていないので、すでに就寝しているのだろう。
ドアを控えめにノックしてみる。
「セラディス、起きてる?」
返事はない。ドアノブに手を掛けてみたが、やはり鍵は掛かっていた。そりゃそうだ。他の聖職者も寝泊まりする宿泊所なのだから、鍵ぐらい掛けるだろう。
やるべきことはやった。
そう思って踵を返し、一階へと下りる。そして再び応接室へ向かおうとしたところで、ふと足が止まった。
それは、小さな気づきのせいだった。
ルミナスの司祭館の寝室にも鍵はある。それは在室時のプライベートを守るための"内鍵"だ。ルミナスの司祭館は基本的にひとつの家族が使う屋敷なので、自分の寝室に外から鍵をかけて、誰も入れないようにする必要はない。
しかし、この司祭館は国内外のあちこちから来る聖職者の宿泊用。当然、自分の不在時に他人の侵入を防ぐための"外鍵"がある。
セラディスの部屋は、どちらで施錠されていた?
わからない。わかるはずがない。室内に彼がいるのかどうか、この目で見るまでは。
足先が、応接室から使用人のエリアへ方向を変える。
キッチンで、先ほどのメイドが明日の朝食の準備をしていたので、彼女に頼んでセラディスの部屋のスペアキーを借りた。
教義破りを懸念したらしい彼女がそのまま付いてくるが、仕方ない。それどころじゃない。
二階へ駆け上がり、スペアキーを使ってセラディスの部屋のドアを開ける。
室内は真っ暗だ。廊下から漏れ入るランタンの明かりを頼りに、ベッドの上に目を凝らす。
いない。
焦った気持ちのまま、水回りに続くドアを開けてみるが、そこにもいなかった。
「セラディスが、いない……」
全身が急激に冷えていくのを感じた。