一階へ駆け戻る途中、あたしの心臓は何度も喉まで跳ね上がりそうになった。
足をもつれさせながら受話器に飛びつき、耳に当てる。
「エリオード、ごめん、ごめんなさい。セラディス、いなかった。ベッドにもバスルームにもどこにも……」
あたしの声は自分でもわかるほど震えていた。情けない。あたしは馬鹿だ。そしてどうしようもなく無力だ。馬車で一日半かかる場所にいる彼に縋るなんて。
伝えた瞬間、怒鳴られるかもしれないと覚悟したが、エリオードは意外なほど冷静だった。
「わかった、マナシア。この電話を切って、ユダリスクの屋敷に掛けろ」
「ば、番号知らない」
「番号? 何の番号だ?」
「電話番号だよ、ユダリスク司教の屋敷に繋がる」
「そんなもんねぇよ。電話掛けたことないのか? 受話器上げたら横のクランク(ハンドル)を回せ。それで交換手に繋がるから、『ユダリスク司教の屋敷に繋いでください』と言えばいいんだ」
簡単な手順なのに忘れてしまいそうで、慌てて台の上のメモ帳に羽ペンを走らせる。焦りすぎてペン先が震え、滲んだインクが手の横に付いた。
「電話したあとは? なんて喋ればいい?」
「向こうの使用人が出るはずだ。名乗って、とにかくユダリスク本人を呼び出せ。断られても粘れ。それでユダリスクが電話に出たら、『夫がそちらへ行ったかもしれないので、今から伺います』と伝えるんだ。いいな?」
「わかったけど、それでどうなるの?」
「どうもならないかもしれない。わからない。だが、最速で打てる手はこれだ。電話して向こうを騒がせて、ユダリスクの手を煩わせる。セディと会う暇がないくらいに」
『会う暇がない』という言葉が引っかかった。
「ねえエリオード、セラディスはユダリスク司教の屋敷にいるんだよね?」
「わからない。屋敷に呼びつけてるかもしれないし、別の場所に呼んでいて、そこで落ち合うつもりかもしれない。わからないから、行方の知れないセディを探すんじゃなく、ユダリスクのほうを引き留めろと言ってる」
「でも、別の場所で待ち合わせてるならユダリスク司教だってもう屋敷にいないかも」
「電話して不在だと言われたら、どこへ行ったか死んでも聞き出せ。下っ端は知らなくても、執事なら主の行き先くらい把握してるはずだ。それと、馬車を先に呼んでおけよ。女がひとりで出歩けるほど、アウレリアの夜は平和じゃない」
エリオードとの電話を切り、メイドに馬車を呼ぶよう頼んでから、再度電話機に向き直った。エリオードに教わった通りの手順で取次ぎを頼み、少し待つ。
交換手との通話が切れて、若い男の声が応答した。
「タレンミア邸でございます」
「あの、すみません。マナシア・フェルヴェインと申します。ユダリスク司教にお取り次ぎ願えませんか?」
「申し訳ございません、
「いえ、それでは駄目なんです。直接お話ししないと意味がなくて……!」
「さようでございますか。では、ご用件を簡単にお聞かせください」
「それは、ちょっと……話せないんです」
「しかしそれでは、私どもも、どうにも……」
「お願いします、緊急の用件なんです」
電話口の男は困ったような声を上げると、「少々お待ちくださいませ」と言い残して電話を保留にした。
間もなく、別の男が出る。
「お待たせいたしました、執事のアルバートでございます。本日、主と夕食を共にされたマナシア・フェルヴェイン様ですね」
その声と言いぶりで、あたしは記憶の中からごま塩頭の男を選び出した。名前までは覚えていなかったが、夕食会で給仕をしてくれたひとりだ。
「アルバートさん、お願いです。どうしても司教様に直接お話ししたいのです」
「ご無礼ながら、このような時間に既婚の女性のお電話を用件もわからず取次ぐわけにはまいりません。主は立場ある方です。妙な噂が立てば、信頼に関わります」
もっともすぎて返す言葉がなかった。どうする。嘘の用件を適当に言うか。いや、そんなのすぐバレる。
言うしかない。それに、夫を心配する妻という
「私の夫、セラディスがいなくなったのです。そちらへお邪魔しているのではと思い、お電話しました」
「そうでしたか。こちらへは、いらしていないようですが」
「本当にそう言えますか? 私は見ました。夕食のあと、ユダリスク司教がセラディスに何か耳打ちをするのを。夜にこっそり会う約束をしていたのでは?」
ハッタリだった。しかも、相手の核心を突いて通話を切られかねない危険な賭け。
しかし効果はあった。
「主に確認してまいります」
アルバートはそう言い残し、受話器を離れたようだった。
あたしは焦りともどかしさで唇の裏側をがじがじと噛む。あたしの癖だ。出ないようにしていたのに。
どれくらい待たされただろう。体感で十分は待った。
ぴりっとした痛みのあと、舌の先にうっすらと血の味を感じた。ああ、やっちゃった。
電話口で物音がした。
優雅でゆったりとした声が、背筋をなぞるようにあたしの鼓膜を揺らす。
「こんばんは、マナシア。数時間ぶりだね」