「聞いたよ、セラディスがいないんだって? それは心配だ」
ユダリスク司教の優しげな声の響きは、あたしの不安と疑念を和らげるどころか逆に強めた。
悪人がいつも悪人面してるわけじゃない、というエリオードの言葉が思い出される。
この男が悪人だというなら慎重にいくべきだけれど、あたしにはそんな余裕も機転もない。
思えばトウマとだって、他の姫みたいに上手い恋の駆け引きはできなかった気がする。
ううん、そんな駆け引きできなくても、あたしを他の姫と同じように大事にしてくれたのがトウマだった。
あたしはそういう人間だ。好きな人には好きだと言うし、嫌いな人とは距離を取る。
疑念は真っ直ぐ、口にする。
「セラディスがそちらへ伺っていませんか。いえ、もっと正確には、セラディスと夜、会う約束をしていませんか」
「来ていないし、約束もしていないよ」
間髪入れずに返ってきた回答には、およそ疑いの余地はなかった。
もしも、あたしがエリオードから、何も聞かされていなければ。
「そうですか。ではセラディスは、約束をしたと勘違いをして、今まさにそちらへ向かっている最中かもしれません」
「それは、あまり考えられないことだと思うな」
「夕食のあと、セラディスに何か耳打ちされましたね」
そんな場面は見ていないが、先ほどアルバートにしたのと同じ揺さぶりをかける。ユダリスク司教には耳打ちなど身に覚えがないはず。だからこそ、どうしてあたしがそんなことを言ってくるのか気になるはず。
そして、おそらくその"気になる"という気持ちが、ユダリスク司教が今こうして、わざわざ電話口まで来てあたしに応対している理由ではないか。
「耳打ち? はて……そう見えるようなことをした覚えはないのだけれど」
「では私の勘違いでしょうか。ああ、司教様。夫のことが心配で、私も気が動転しているのかもしれません。ですがどういうわけか、夫は司教様のもとへ行った気がするのです。夫婦の勘、というものでしょうか」
ユダリスク司教は何も言わなかった。あたしはその沈黙を、あたしの真意を探りたいがための沈黙だと捉えた。
彼はあたしにもっと喋らせたいはず。あたしが何を知っていて、何を疑っているのか確認するために。
だから、断られない自信があった。理由が明確でなくたって。
「司教様、今からそちらへ伺ってもいいでしょうか。居ても立ってもいられなくて」
一瞬の静寂のあと、ユダリスク司教の声が柔らかく返ってきた。
「わかったよ。では、気をつけておいで」
あたしは受話器を置くと、急いで自室に戻り、動きやすい普段着用のドレスに着替えた。髪はまだ乾ききっていないが関係ない。ハーフアップにまとめてエリオードにもらった隠しナイフ仕込みのバレッタをつける。化粧をしている暇はない。
メイドが呼んでくれていた馬車に乗り込み、あたしは夜の町を駆けていった。
到着した屋敷の門前では、アルバートが待っていた。深夜にも関わらずきちんとした身なりで、唇は威圧感を与えない程度に引き結ばれている。
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
寝静まった屋敷の中を通り、案内されたのは誰もいない応接室だった。灯された燭台の火が人の動きで生じる風に揺れる様すら今は怪しく見えてしまう。
「ユダリスク司教はどこですか。お部屋にいらっしゃるのなら、伺っても?」
「いいえ、主はここへまいります。ここでお待ちください」
有無を言わせぬ口振りだった。
やがて出入り口の扉が開き、ユダリスク司教が現れた。上質なローブの上に濃紫の大判ストールを羽織り、長い黒髪は後ろで軽くまとめている。
ふわり、と嗅ぎ慣れない香の匂いが漂った。セラディスから香る、教会で焚くような香とは少し違う。
夕食会で会ったときには感じなかった香り。就寝前に焚く人もいると聞くから、彼もそうなのかもしれない。
彼はあたしの向かいに座ると、静かに口を開いた。
「気が動転していると言っていたけど、ここへ来るまでに少しは落ち着いたかい?」
「ええ、少し。夜分遅くに申し訳ありません」
「いいんだよ。信者の不安な夜に寄り添うことも、私たちの大事な務めだからね」
「ユダリスク様……セラディスがどこへ行ったのか、お心当たりはありませんか?」
「いいや、残念だけれど」
「そうですか。では、夜遅くにセラディスと会われたことはありますか?」
「さて、どうだったかな。あったかもしれないし、なかったかもしれない」
「覚えていらっしゃらないのですね」
「そうだね。なにせ、夜に会いたいと言ってくる者は多いから。神父やシスター、そして今の君みたいな信者たち」
「僭越ながら申し上げます」
壁際に立っていたアルバートが声を発した。
「誤解なさいませんよう。主が夜間に人と会う際には、必ず私が同席しています。中には良からぬことを考えるお方もいますので」
ユダリスク司教は短く笑った。
「補足をありがとう、アルバート。わかったかい、マナシア。私には男女の逢瀬の隙もないわけだ。いつまでも過保護な執事のおかげでね」