「過保護だなどと、甚だ心外でございます」
「私は事実を言ったまでだよ、アルバート」
「ああ、坊ちゃま。私はタレンミア家の執事として、坊ちゃまの将来に要らぬ影が差さぬよう――」
「ほら、そういうところだ。坊ちゃまなんて、四十も近い、いい大人に」
「四十まで、まだ三年もございます。失礼ながら、私からすれば――」
彼らのやり取りをぼんやり眺めながら、あたしの思考は自然と、別の場所へ落ちていく。それは今夜の時系列だ。
セラディスと司祭館の二階で別れたのは午後九時過ぎ。シャワーを浴びて、エリオードからの電話を受けたのが十時ごろ。そのあとセラディスの部屋へ行き、からっぽの彼の部屋を確認。そこからユダリスク司教に電話をかけて、こうしてあたしは屋敷に来た。馬車で三十分の距離。
セラディスがここへ来ているとしたら、それはなにで?
メイドの反応から察するに、セラディスはメイドに馬車を頼んでいない。となると、彼は流しの馬車を拾ったのだろうが、そのためにはまず、大通りへ出なければならない。その時間と、屋敷に着くまでの時間を合わせて四十五分と考える。
つまり、セラディスがこの屋敷に呼ばれていたとしても、彼とユダリスク司教が密会できた時間はごく僅か。しかも、あたしは"これから伺います"と電話で告げている。そんな状況で、ユダリスク司教はセラディスに手を出すだろうか。否。
間に合った。
そう信じたい気持ちが、あたしの胸に根を張る。
「マナシア、顔をお上げ。そう思い詰めることはないよ」
黙り込んでいたあたしに、穏やかな声が注がれる。知らず俯いていた顔を真正面に戻すと、吸い込まれそうなパープルブラックの瞳があたしを見ていて、感情を読まれそうな感覚にぎくりとする。
「セラディスは真面目で敬虔な子だ。もしかすると、近くの教会にでも行ったんじゃないかな。君たちの泊まる司祭館のそばには“エルナト聖堂”があるだろう? あそこは夜間も解放されているからね」
慰めるように、柔らかく笑う目の前の男。暗に、帰って教会を見に行ったらどうかと言われているような気がしたが、あたしは気づかないふりをする。
解放などしてやらない。セラディスのもとへ行かせてなるものか。
たとえひと晩中だって、あたしはここに居座ってやる。
「……そうかもしれませんね。でも、教会へ行くなら私を誘ってくれてもいいはずなのに」
「ひとりで祈りたい夜もあるんだよ」
「そうだとしたって、出掛けるならひと言、声を掛けてくれるはずなんです」
「君は寝ていると思ったのかもしれない」
「それならメイドに言い置けばいいんです」
「そう心配せずとも、朝までには戻ってくるよ。あの子だっていい大人だ」
「朝まで戻ってこないのならば、逆に心配です。"いい大人"なのですから」
ユダリスク司教はそこで黙った。口元に笑みを残したまま、ひとつ、ゆっくりとまばたきをする。
あたしは彼の瞳を強く見つめ返した。
「私に言えない場所に、行ったのですかね」
前屈み気味だったユダリスク司教が、ソファに背を預けた。
「セラディスを疑っているのかい?」
「いいえ、彼のことはちっとも」
あたしは首を振り、立ち上がる。必然的に目線が上がり、ユダリスク司教を見下ろすかたちとなる。
彼に心当たりがあるならきっと、これまでのやり取りであたしの疑念は察しているだろう。だから、今さら隠す必要はない。
してはいけないのは、ソレについて明確に言及することだ。つまり言質を取られること。証拠もなく名誉を傷つけられた、と訴えられかねない。ユダリスク司教自身がその立場上、寛大な心の表明として笑って許したとしても、隣のアルバートはどうだろうか。
だからギリギリを狙う。
「ユダリスク様、屋敷内を見せていただけませんか」
「何のためにだい?」
「電話でお話ししたとおりです。『居ても立ってもいられなくて』少し歩き回りたいのです」
「マナシア様、それは過ぎた願いというものです」
アルバートが声音を硬くした。落ち着いた言い方の中に明確な拒絶が内包されている。
しかしそれを、ユダリスク司教は制した。
「構わないよ、アルバート。ただの散歩だ。私が付き添おう」
その時だった。応接室の扉がノックされ、若い男の使用人が現れた。
失礼いたします、と言う声を聞いて、あたしは彼が最初に電話を取ってくれた人物だと気づいた。
彼は急ぎ足でアルバートへ寄っていき、何事か耳打ちをすると、頭を下げて去っていった。
「なんだい?」
微笑を崩さず尋ねるユダリスク司教に、アルバートは淡々と答える。
「司祭館のメイドから入電です。セラディス様が戻られた、と」
「そうか、それはよかった」
人心を見透かすような目が、すっとあたしに向けられる。
「これで安心だね、マナシア」
「……ええ。お騒がせして申し訳ございませんでした」
深く頭を下げて、ゆっくりと上げる。
安心だって? 笑わせる。アウレリアにいる限り、安心な夜など訪れやしない。
多くの信者たちを
「気をつけてお帰り。夜風が冷たいから、風邪を引かないようにね」
司祭館に帰り着くと、メイドが玄関先で出迎えてくれた。
「セラディス様がご無事で本当に良うございました。少しだけ、お散歩に出ていらしたようです」
そう言って微笑むメイドの言葉に、あたしは笑顔で頷きながらも、内心穏やかではなかった。
散歩だなんて、下手な言い訳を。いっそ本当に教会に行っただとか、信者と会っていたとでも言ってくれれば、それらしく思えて信じたかもしれないのに。
「マナシア様が探しに出られたことをお伝えしようと思ったのですが、セラディス様はずいぶんお疲れのご様子で……」
「いいよ、彼には黙ってて。いろいろありがとね」
メイドに労いの声を掛けて、もう休むように言い、あたしは二階へ上がった。
セラディスの部屋の鍵は掛かっていなかった。
ドアを開けると、室内の奥のベッドに、神父服のままベッドに倒れ込むように眠るセラディスがいた。
僅かに差し込む月光に照らされた安らかな寝顔を見た瞬間、緊張の糸がぷつんと切れた。
ああ、よかった。
無事で、本当によかった。
あたしは彼が横たわる側と反対端の掛布団を上手く剥がして、寒くないよう、彼の体をくるんでやった。
んん、と声を上げて彼が僅かに身じろぐ。その表情がいつもより幼く見えて、あたしの胸の中で愛おしさが弾けた。
「セラディス……」
目に掛かった彼の前髪に手を伸ばす。指先でそれを払いのけると、白銀の額があらわになった。
その額の端へ、そっと口付ける。以前に彼がしてくれたように。
唇に感じた温もりに、不意に涙が出そうになった。
「おやすみなさい、セラディス」
名残惜しい気持ちと足音を殺して、あたしは彼の部屋を出た。