アウレリアの司祭館で迎える最初の朝。黄色い陽光がレースのカーテンを透かして差し込み、部屋の中を柔らかく包んでいた。伸びをひとつしたあたしはベッドを下りて、洗面台へ向かう。
顔を洗いながら、昨夜遅くにエリオードと話したときのことを思い出していた。セラディスの部屋を出たあと、あたしはその足で一階の応接室へ行き、エリオードに電話を掛けたのだ。応答した交換手の反応を聞くに、電話は即繋がったらしい。
エリオードはセラディスが無事に戻ったことと、そこに至るまでの経緯を聞くと、安堵のため息を漏らしてあたしに礼を言った。あのエリオードが、嫌っているはずのあたしに、だ。
正直、驚いた。と同時に、エリオードにとってセラディスがどれほど大きな存在かを改めて思い知らされた気がした。
それもそうか。なにせ十年来の親友なのだから。
実をいうと、あたしもすごく疲れていたのでエリオードへの連絡は朝でもいいかと一瞬頭をよぎったのだ。でも、すぐに電話してよかった。
エリオードの、全身から絞り出すような『ありがとう』の声を聞いて、あたしは自分の選択を褒めたのだった。
朝食の席でセラディスは、彼の今日の日程を話してくれた。滞在二日目となる今日は、現地司祭たちと行動を共にするらしい。
まず、午前中は勉強会があるという。そのあとの昼食は司祭たちととり、午後は礼拝と告解(懺悔)の聞き取り。夜には彼らとの夕食会に参加する。
朝から夜までぎっしりコースだ。
その集まりにユダリスク司教は来るのかとそれとなく聞いてみたが、司祭だけの仲間内の集まりだとかで、彼は来ないらしかった。あたしはホッと胸を撫で下ろす。
「ひとりにさせてしまって、すみません」
「ううん、全然! あたしが勝手に付いてきたんだもん」
「……商業区でしたら、ルミナスにはない店がたくさんあると思います」
「ほんと? 行ってみようかな!」
「ああ、でもっ、あまり裏通りには入らないでくださいね。それと、暗くなる前には帰ってきてください」
「はぁい」
過保護、という言葉が喉から出かかったけれど、そういえば昨夜聞いたばかりだなと気づいて飲み込んだ。あの司教と同じ台詞でセラディスを揶揄するのは嫌だった。
セラディスが玄関を出て行ったあと、あたしもすぐに支度をして外に出た。
もともとお出掛けは好きだ。ショッピングとなれば、なお好きだ。
それに、町の人たちから何か、ユダリスク司教に関する話を聞けるのではと思った。
常にうっすらと笑みを浮かべ、見透かすような紫黒の瞳を向けてくる美しい男。
昨夜は結局、彼の決定的な何かを掴めたわけではなかった。
ユダリスク司教とセラディスとの間に会う約束があったのか、ユダリスク司教の屋敷にセラディスがいたのか、もしくはセラディスは別の場所にいて、ユダリスク司教が来るのを待っていたのか……本当のところは何もわからなかった。
あたしが彼の屋敷へ行くと電話したあとでセラディスを解放したならば、セラディスはメイドが電話してきた時刻までに余裕で司祭館に帰り着く。あたしが屋敷に到着したあとに解放していたとしても、おそらく間に合う。
だから、屋敷から司祭館への距離を理由に『セラディスには昨夜ユダリスク司教と会う時間はなかった』と断言することはできない。
そこへきて、"散歩をしていた"という謎の不在理由だ。長旅で疲れた夜に、わざわざひとりで抜け出して歩き回るだろうか。セラディスのアレは十中八九、嘘だ。
けれども、ここまで怪しい要素が満載にもかかわらず、セラディスが狙われているというエリオードの主張を100%信じきるには決め手に欠けると思う自分もいた。
ユダリスクという男がわからない。昨夜を思い返して浮かぶあの笑みと優しい言葉があたしを困惑させる。ともすれば、ほだされそうになる。
喉元過ぎれば熱さを忘れる、とはこういうことをいうのだろうか。いや、そもそも熱いという感覚すら勘違いだったのではと思えてしまう。
そう思わないための確信がほしい。
今日は町に出て、ユダリスク司教の悪い噂を何かひとつでも掴みたい。
聖都アウレリアの商業区は、聖都ルミナスと比して五割増しに華やかだった。
石畳の通りに面した店々は、繊細な彫刻を施した看板や色鮮やかな
交差点には噴水や飾り柱が建ち、往来を行く人々の衣装も多種多様で、この町がただの宗教都市ではなく、商業的・文化的にも発展した中心地であることを物語っていた。
顎を上げて歩く人々を見ているうちに、あたしも自然と明るい気持ちになってきて、目についたブティックやら雑貨店やらをひたすらはしごしていく。
商品を眺めていると店員が寄ってくるので、適当なひとつを取ってその良し悪しを尋ねながら、ついでのような雰囲気でユダリスク司教の話をチラつかせる。
すると皆、判で押したようにこう言うのだ。
ユダリスク司教様のおかげ。
あのお方は素晴らしい。
同じ台詞を聞き続けていると、本当にそうなのかもしれないと思えてくるのが怖かった。
彼らの意見を収穫と捉えていいのかは疑問だったけれど、お昼になり、とにかく胃が空腹を訴え出したので、あたしは調査を切り上げた。
昼食は、通りの一角にあるガラス張りのデリでとった。お昼時の飲食店で後ろに数人並ばせながら余計な話はできないので、ここでは大人しくただの客となる。
簡単な惣菜プレートとパンを買い、窓際のイートインカウンターに腰を下ろした。通りを行き交う人々を眺められる造りになっていて、現実世界のカフェチェーンのようだ。
ふと思い出す。トウマとの同伴の待ち合わせに早く着きすぎたときなんかに、よくカプチーノで時間を潰したっけ。
二度と戻れない場所への郷愁を振り払い、胃に食べ物を詰めたあたしはまた通りに出た。
ワゴンの花屋に声を掛けられて、ふらりと立ち寄り、世間話として目当ての話題を口にする。
「ユダリスク司教様のおかげで町が潤っているようなものだよ」
花を包みながら、店主の女は語ってくれる。またこの台詞か、とあたしは半ば飽き飽きしつつ聞いていた。
だが、気になるひと言があった。
「司教様は、気難しいと言われる商人たちにまで人気があるんだ。あの方が聖都アウレリアに来てから町は栄える一方だし、治安も良くなった。もっとも、綺麗な薔薇には棘があるって言うけどね」
「棘、ですか」
「いやいや、冗談さ。忘れておくれ」
忘れられるわけない。
棘という言葉。一般的に、良い意味では使わない。
完全無欠、清廉潔白を絵に描いたような男の僅かな綻び。それを見たような気がして、あたしはこの言葉を胸にメモした。