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第33話:聖女の指先

 セラディスとの約束どおり、あたしは日が暮れる前に司祭館へと戻った。

 歩き回って少し疲れたので仮眠をとり、夕食のために一階へ下りると、ダイニングにシスターが座っていた。

 彼女は食前の祈りを捧げているようだったが、やがてそれが終わると、あたしの存在に気づいて立ち上がった。


「初めまして、ノアと申します。北方地区の聖都ノルグから参りました」


 ノアは、長い黒髪を左右に分けて三つ編みにした大人しそうな――言葉を選ばず言えば地味なシスターだった。銀縁の眼鏡の奥で黒い瞳が穏やかに光り、物腰は極めて柔らかい。

 食事をしながら話しているうちに、ティアリナとも過去に面識があることがわかった。容貌もボディも華やかなティアリナと並んで歩いているところは想像しがたかったが、ノアいわく、ずいぶんと仲が良かったらしい。


「シスター・ティアリナがお元気そうでよかったです」

「うん。お仕事は大変そうだけどね」

「それはもう……! シスター・ティアリナは優秀でいらっしゃるから、私なんかよりずっと重要な職務を任されるのです」


 眼鏡の奥の瞳が輝く。


「ティアリナとは、長く一緒だったの?」

「はい。ノルグの修道院で修業をしていたころに」

「ふうん、修行……」

「シスター・ティアリナは、私のような出来の悪い人間をいつも気にかけてくださいました。ある日なんて私、大事な晩餐会の準備中に手が滑って聖杯を落としてしまったんです。割れはしなかったのですが、大きな音がして……誰かが咎めに来ると思ったその時、シスター・ティアリナが先に駆けつけて私の前に立ち、『ネズミを追い払っただけですわ』と言って庇ってくださいました。おかげで叱られずに済んだのです」

「ティアリナらしいね。面倒見が良いっていうか」

「はい。他にも、私が書いた献金記録の金額ミスを見つけてくださったり、集会の進行役になった私が、緊張で祈りの言葉を忘れたのをフォローしてくださったり。私、本当にドジで……孤児院の子どもたちへの読み聞かせでさえ、大事な場面を読み飛ばしてブーイングされてしまうような人間で……でもシスター・ティアリナは『彼女はあなたたちがしっかり話を聞いているかテストしたのよ』って冗談っぽく子どもたちを宥めてくれて……」


 彼女の声は熱を帯びており、その表情からは、尊敬や憧れを超えた心酔を感じた。まったくティアリナは罪な女だ。


 夕食が終わるころには、あたしとノアの距離感はティアリナの話題を通じてだいぶ縮まったように感じられた。その証拠に、食事が終わってもノアは立ち去らず、先に席を立とうとしたあたしを引き留めた。


「マナシアさん、もう少しお話しませんか。セラディス神父様が戻られるまで、まだ時間があるようですし」

「じゃあ……そうしようかな」


 特に断る理由もなく、誘われるままリビングへ移動した。並んでソファに腰かけると、互いの重みでクッションが沈む感触がわかって、自然と距離感に意識が向く。


 気を利かせたメイドが現れて、湯気の立つハーブティーを置いていく。カップとソーサーを取り上げてひと口含み、ミント系の爽やかさが鼻から抜けていくのを感じながら、隣の彼女に目を遣った。


 ノアは湯気でレンズが曇るせいか、眼鏡を外していた。ひとつ、隔たりのなくなった小さな顔は、まるで表情を制限する透明な仮面から解放されたかのように、ふわりと可愛らしく見える。


「美味しいです……」

「うん」

「セラディス神父様ともこんなふうに、ゆっくりお茶を飲んだりされますか?」


 問われてあたしは即答できなかった。

 どうだろう。セラディスと夜にふたりでお茶を飲むなんてこと、あっただろうか。セラディスは夕食が終わると大体すぐに寝室へ行ってしまう。それで、あたしがシャワーを浴びたあとに交代でシャワーを浴びて、また寝室へ行き、そのまま眠ってしまう。


「あんまり、しないかも」

「そうですか。したいと思ったことは?」

「うーん、ないかな。夜に紅茶なんて、あたしには優雅すぎて」


 元夜職のあたしからすれば、夜の飲み物とはもっぱらアルコールだ。


「では、他にしたいと思った"こと"はありませんか? セラディス神父様と」

「えっ?」

「例えば、こういうこと」


 ソファの上に適当に置いていた手の甲に何かが這う感触がして、あたしは反射的に手を引いた。"何か"の出所を見てみて、それがノアの細い指だったとわかる。


「あはは、びっくりした……」


 避けたように見えたかと思い、フォローを入れる。

 ノアの黒い瞳が熱っぽくあたしを見つめていた。食事のときよりも魅力的に見える理由は、眼鏡の有無という差だけだろうか。


「ノア……?」

「マナシアさん。正直に申し上げると、最初にあなたを見たとき、少し驚きました。シスター・ティアリナとはまた別種の美しさに。彼女はカサブランカのような気品と艶やかさのあるお方ですが、マナシアさんはマーガレットのように明るく可憐なお方」

「え? あ、ありがとう……」


 予想外の褒め言葉に少し戸惑い、それを隠すようにテーブルの上のカップとソーサーを持つ。先ほどよりも少し冷めた紅茶を、時間稼ぎのようにちびちびと喉に流し込んだ。


「でもね、マナシアさん。一見明るく見えるあなたの表情に、時折影が差すのが私は気になるのです」

「そ、そうかな? 自覚ないんだけど」

「そうです。そしてその原因は、セラディス神父様とのご関係にあるのではないですか? ……だって、マナシアさんは察するに、25歳に達していらっしゃらない。触れ合えないのでしょう? 愛するセラディス神父様と」


 ノアの声が少しずつ甘く響き始める。その湿度を持った囁きがいつのまにか耳元に来ていて、心臓が小さく跳ねた。


「ですが、そのお心を、私がお慰めできるかもしれません。ご存じでしょうか、どこまでが許されて、どこからが教義破りとなるか。私は知っています。だからマナシアさんは安心して、私にお任せくださればいいのです」


 ど、ど、どういう意味!?

 言葉どおり受け取るとしたら、すごくエッチな感じなんだけど!


「女同士ですと、男性に理解してもらえないような気持ちも、分かち合えると思いません? シスター・ティアリナとは、そんなふうに互いを慰め合ったこともあるんです」

「えっ、えっ、ティアリナと!?」


 あたしの戸惑いを楽しむかのように、ノアは微笑を浮かべる。そこに彼女の地味な印象はなくなっていて、もはや魔性すら感じる。


「体の一部がうずくことはありませんか? 特に、静かな夜などに」

「それは、その――」


 曖昧に口を濁すあたしの手に、再びノアの細い指が触れた。そのままつうっと手首まで撫でられると、体が微かに震える。


「私の部屋へいらしてください。大丈夫です。心が温まる程度に、お慰めするだけですから」


 彼女の吐息が耳朶をくすぐる。すべらかな指があたしの腕をゆっくりと伝い上がり、肩先を撫で、鎖骨の上で遊ぶ。そして不意にバランスを崩したかのように滑り落ち、最も弱い部分をかすめた。


「んっ……」


 漏れ出た声に、顔がカッと熱くなる。


「マナシアさん……お嫌ですか?」


 返事ができなかった。それよりも、彼女の手の動きに翻弄されていた。


 ドレスの薄い生地の上から脇腹を焦らすように往復したあと、骨盤の出っ張った部分を指先でくりくりといじる。その振動が徐々に体の中心を熱くしていく。


 やがて彼女の手が太腿の外側を大胆に撫でた。膝まで下りてまた滑り上がり、尻と腰の中間を掴むように動いては、もったいぶるように滑り下がる。


 拒否の声が出せないのは、この感覚を甘受しているせいだろうか。


 あたしは求めているの? 出会ったばかりの彼女との、刹那的な関係を?


 何か言おうとして口を開くと吐息が漏れた。


 太腿の外側を蠢いていた彼女の手が徐々に内側に向かってきて、その指先がドレスのスカートの生地を強めに押し込む。


「これ……邪魔ですね。私の部屋へ行きましょう? ね?」


 その時だった。玄関のほうで、ドアの開く音がした。

 ハッと我に返ったあたしは、慌ててノアの手を振り払い、立ち上がる。


「セラディス……!」


 何かをごまかすために彼の名を呼んだ自覚があった。そのわずかな罪悪と羞恥に息が震えるのを感じながら、あたしは玄関へ向かって駆け出した。


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