目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第34話:緩和と緊張

「ああ、マナシアっ。ただいま戻りましたぁ!」


 玄関ホールに行くと、顔を耳まで赤くして目を潤ませたセラディスが海中のワカメみたいに揺れながら、ようやっと立っていた。あたしを見つけた途端、ニコッと微笑んで手を振ってくる。


 可愛い可愛い可愛い襲いたい可愛い駄目だって可愛いよし連れ込もう可愛い可愛いやめろ馬鹿可愛い。


 情緒を乱されて顔がにやけるのを、表情筋で何とか心配げな感じに固定して、ワカメ状の彼の背をそっと支える。


「飲みすぎちゃった? 大丈夫?」


 問いかけると、セラディスはくすくす笑い声を上げた。


「ええ、ええ、大丈夫です! 乾杯がですね、まあ何度もありまして。みんな飲むから、つい私も。あはは」


 あまり大丈夫そうではないなと思いながらも、楽しそうなのでいいか、と思う。アルマータの町で一緒に飲んだときには、それこそ酒に飲み込まれたような酔い方だったが、今夜はこうしてひとりで歩いて帰ってきたようだし、ちょうどよい回り具合なのだろう。

 力の抜けた手から手提げ鞄をもらい受ける。


「大丈夫ならよかった」

「心配させちゃいましたか? でもほら、見てください。手も足もちゃんとありますよ!」

「うん……ちゃんとあるね。安心した。ほら、部屋に行こう。ふらふらしてて危ないから、あたしの肩持って」


 ふたりで二階のセラディスの部屋まで歩く間も、彼はいつもより饒舌だった。彼にしては珍しく大きな声で話すので、他の宿泊者に怒られないか気になったが、せっかく彼が陽気なのに、静かにするよう注意などできなかった。いや、したくなかった。


 部屋に着くや否や、セラディスは足を床に投げ出すかたちでベッドに仰向けに倒れた。顔を覗くと少し笑っていた。


「今日は一日どうだった?」


 隣に腰かけて尋ねると、彼は寝転んだままあたしを見上げて、パッと表情を輝かせる。


「いやあ、楽しかったですよ! 朝は勉強会で、皆さんとても真剣でしてね。議論の機会もあって、論点は昨今の信者の告解内容についてなんですけど。『“悔悛かいしゅん”よりも“救済の保証”を求める傾向にあるが、これは信仰の深化か、それとも依存の表れか』それで焦点は、『告解を"免罪の手続き"としてしか認識していない信者が増えているのでは?』というところと『神父やシスターは、信者の"問い直す力"を育てられているか』というところにありまして」


 彼が何を言っているのか、あたしにはさっぱりだった。だから、せめて相槌を打てる話題に変えようと、ちょっと乱暴に話を遮る。


「そっか。それで、お昼は何を食べたの?」

「お昼ですか? これも美味しかったんです。新しくできたという食堂に連れていってもらったのですが、なんだったかな……あの、ふわふわしたの」


 セラディスは酔っているせいか、話題が急に変わっても気にせず上機嫌で話し続ける。


「ふわふわ?」

「そうだ、スフレです! アウレリア産の羊乳から作ったチーズが入ってて……えっと、あとは……何を食べたんでしたっけ……それで、午後は礼拝をして……」


 目がとろんとしていた。可愛いな、と思いながらあたしは彼の髪を指先で撫でる。


「良い一日だったみたいだね」

「……はい、とても」

「あたし、もう行くね。おやすみ、セラディス」


 こんなに眠そうなのに、話をさせているのは可哀想だ。

 あたしは立ち上がってドアの方へ歩き出す。


「マナシア」


 呼ばれて振り向くと、セラディスがベッドから体を起こしていた。


「おやすみ、マナシア。また明日」

「うん、また明日」


 踵を返しかけて、ふと止まる。もう一度セラディスを見た。


「今夜は、散歩には行かないよね?」


 アルコールに浮かされた彼の耳にもしっかり届くよう、あえて硬質な声音を作って尋ねる。


 セラディスはひとつ、まばたきをした。その瞬間、宙に浮いていた彼の足がきちんと着地した気がした。


「行きません。約束します」


 あたしは彼の部屋を出た。

 その足で、一階のキッチンへと向かった。食器棚を開けて、一番脆そうなティーカップを取り出す。それを持ってセラディスの部屋の前まで戻り、レバータイプのドアノブに取っ手を引っかける。

 ドアを開けるためにドアノブを押し下げれば、重力に従ってティーカップが落ちる。落ちればおそらくカップは割れる。


 あたしは自室のドアを薄く開けて寝るつもりだから、音がすれば目覚めるだろう。


 セラディスを信じないわけじゃない。念には念をというだけだ。


 部屋に戻ったあたしは、部屋のドアと水回りに繋がるドアを少し開けたままシャワーを浴びた。そして髪を乾かし終えると、燭台の明かりを消してベッドに潜った。


 ドアの向こう、廊下のほうに耳を澄ませながら、静寂がやけに心地よく感じられて、意識が泥のような睡魔の底に沈んでいく。


 寝苦しさで目が覚めた。けれども覚醒しきっていなくて瞼が上がらない。

 上向きに寝た体の上に、柔らかな重みがあった。金縛りかと思ったけれど、違うと気づく。


 薄いネグリジェの生地の上を、熱くしなやかな何かが這う。


 ソレが首筋にぺとりと張り付いた時、重かった瞼がようやく上がる。


 あたしに覆い被さる華奢な影。

 ノアがあたしを見下ろしていた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?