目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

★第36話:あなたでなければ救われない

 湿った水音。それが自分の左胸から聞こえてくるという事実に、あたしの顔は熱くなる。

 指よりも粘着質なそれは、薄いネグリジェの生地を貫通してあたしの先端を濡らす。そしてあらゆる方向から撫で回し、ときに焦らすように周囲をくすぐり、ときに追い上げるように速度を増して、神経の密集した一番先を上下に弾く。


「んんっ……!」


 と声が漏れ、それが恥ずかしくて『違う』と言おうと開いた口が、


「あっ、は……ふぅ、あ」


 母音と吐息を無意味に発する。


 ちゅぷっ、とリップ音を立てて一度離れたノアの頭が、今度はあたしの右胸に移動する。


「あっ、あっ、待って……ふあっ」


 生温かい液体が先端を包む。それからそれを啜る音。鼓膜から入り、神経を通って下腹部の奥を小さく刺激する。


 体が期待している。左胸に与えられた愉悦の再現を。

 頭の中がぼうっとする。


 果たして、その刺激はやってきた。それも初めからトップスピードで、快楽の頂点へ追い立てるような。


 駄目。やめて。


 そう言いかけた口を、今度は自分の手で塞いだ。


 ノアのすべらかな手がネグリジェの上から腹を撫でる。何度か往復したあと、四本の指で下腹部をクッと押す。

 自分で塞いだはずの口から、くぐもった甘い声が漏れる。


 ノアの手はあたしの体を下りていき、期待していた中心よりさらに下、膝のあたりまで下りたかと思うと、ネグリジェの裾から中へ入り込み、今度は上昇を始める。

 爪の先が太腿に触れているか、いないか、わからないくらいの動きで。たぶん、"素肌への性的な愛撫"をしないよう。

 けれども、そのもどかしい感覚が、あたしに次を期待させる。


 指先が、下着に触れた。核心の場所よりも少し上。そこを四本の指の腹が撫でる。


 指が徐々に下りていく。硬度を持ったその場所を、同じ女である彼女は見過ごさない。


 クン、と引っかくように刺激されて、腰が小さく跳ねる。と同時に上半身も揺れて、右胸を濡れそぼらせる粘体に自ら先端を擦ってしまう。

 手の中でまた声が出る。


 彼女の指はあたしの反応に確信を得たようだった。一本の指が布越しに、押しつぶすような引っかくような動作を繰り返す。それに合わせて上部でも、先端への刺激が速度を増していく。


 口を覆う手に、もはや意味はなかった。鼻呼吸では追いつかず、酸素を求めて開いた口から次々と嬌声がこぼれる。


 下着を濡らしている自覚があった。その最も湿度の高い入り口を、中核を責める指とは別の指が、同じリズムで押しだした。

 くぷっくぷっ、と音が鳴る。


 ああ駄目、これは無理っ……!


 はしたないとわかっているのに、無意識に膝が開く。


 布一枚がもどかしい。ほんの少し横にずらして、内側まで招き入れてしまいたい。


『真名ちゃん、可愛い……』


 頭の中で糖度の高い声がして、脳が麻痺したようになる。

 トウマ、と呼びそうになった口で慌てて指の背を噛んだ。歯の間から吐息まじりの母音が漏れる。


『こんなことするの、真名ちゃんとだけだよ』


 嘘だってわかってた。ぜんぶ営業だって。

 でもあたし、嬉しかったんだ。

 トウマの肌は香水のいい匂いがした。

 その匂いに包まれて、耳元で好きだよって囁かれて、同じ速さで永遠みたいに揺さぶられるのが最高に気持ちよかった。


 このうえなく幸せだったのに。


「やめて」


 目を開けて、ノアの肩を押しやった。ノアはすぐに動きを止め、起き上がってあたしの顔を覗き込む。


「どこか、痛かったですか」

「体はどこも」

「でしたら、なぜ? あと少しで……」


 あと少しで上り詰めることができた。でも違う。違うんだ。


「あたしはあなたを愛していない。体が気持ちよくても……心が痛いの」


 ノアは傷ついたような顔をした。そして速やかにベッドを下りると、あたしの首元まで掛布団を引っ張り上げた。


「ごめんなさい、マナシアさん。やっぱり、シスター・ティアリナのようにはいきませんね」


 彼女はまだ髪を下ろしていて、眼鏡もかけていなかったけれど、その顔つきはもとの地味なシスターに戻っていた。

 彼女は深く頭を下げると、静かに部屋を出ていった。


 しんとした夜が戻ってくる。部屋中の何もかもが寝静まっているというのに、燃え尽きれなかった欲の炎だけがあたしの中で、くすぶっている。


 あたしはノアの手の動きをなぞる。体を少し丸めて膝まで手を下ろし、ネグリジェの裾から内側へ滑り込む。手首で裾を捲り上げるように上昇していき、下着の布に触れた。


 ここからはノアと違う。思い出すのはトウマの手。へその下から手を這わせて、下着の中へ入り込む。

 さっき散々いたぶられて鋭敏になった中核を中指で撫でると、ぬるりと粘液の感触がした。その指をそのまま下へ滑らせて、切なく待ちわびている入り口に辿り着く。


 指は簡単に飲み込まれていく。圧迫感があって熱い。


 トウマはいつも、どこを触ってくれたっけ。


 ……見つけられない。わからない。だってこの体はあたしのじゃないから。


 中指を引き抜き、薬指を添えてもう一度。先ほどよりも狭く感じる隘路あいろを割り開くように押し入っていく。そうしてひたすら中を探る。

 ちゅぷ、くちゅんと立つ水音が気持ち悪く感じて、心が焦る。


 違う。違う。こんなんじゃない。


「いたっ……」


 心が折れて、指を引き抜いた。その手を布団の外に出して指を広げてみる。

 月光のもと、中指と薬指の間につうっと銀糸が伝い、その糸は重力に負けて、たわんで指の間に落ちた。


 たまらなく惨めで、空しい気持ち。


『綺麗ですね、マナシア』


 不意に頭に浮かぶ。ユダリスク司教との夕食会の前、おめかししたあたしにそう言ったセラディスの、疲労の滲んだ笑み。


 もういい。もういいよ。誰もあたしの中に現れないで。


 恋心、快楽、罪悪感、羞恥、教義、微笑み、香り、声、温もり。


 何もかも忘れるべきではないのに、何もかも忘れてしまいたい。


 あたしは土の中で眠るカブトムシの幼虫のように布団にもぐり、すっかり熱が冷めて寒気すら感じる体を抱き締めながら目を閉じた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?