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第37話:手

 夜明け前になり、あたしはベッドから起き上がった。ひと晩中、うとうとしていただけで結局眠れなかった。

 でも昨夜に限っては、それがよかったかもしれない。眠ってしまっていたら、きっとこんなに早くは起きられなかった。


 ネグリジェの上にローブを羽織り、誰もいない廊下を静かに歩く。向かったのはセラディスの部屋だ。


 ドアノブには、昨夜仕掛けたままのティーカップがぶら下がっていた。


 落ちていない。つまり、セラディスは部屋から一歩も出ていない。


「よかった……」


 あたしは安堵の息を吐き、ティーカップを回収する。陶器の冷たさが、寝つけなかったせいで気だるい体に心地よかった。



 朝食の時間になってダイニングへ行くと、先にノアとセラディスが来ていた。ノアはあたしの姿を認めると、あいさつだけして気まずそうに視線を落とした。

 そしてひと足先に食事を終えて、ダイニングを出ていった。


「今日は一日、現地の司祭たちと『病者訪問』を行います。また、あなたを一人にしてしまうのですが……」


 と、セラディスが言いづらそうに言った。あたしは『大丈夫』という意味を込めて笑顔で首を横に振る。

 それに呼応するように緩やかに口端を持ち上げ、セラディスが続けた。


「もしよければ、アウレリアの町の教会関係施設を見学しませんか? 全教委員会からガイドを借りられそうなんです」

「ガイド?」

「ええ。神学校の学生がボランティアでやっているガイドでして、アウレリア都内の教会や孤児院、信者集会など、あちこち連れていってくれます。彼らは勤勉で知識も豊富なので、その場所ごとにあれこれ説明もしてくれますよ。いかがです?」


 セラディスの話しぶりからは、あたしをひとりで放っておくことへの後ろめたさが感じられた。正直言うと寝不足で体がだるかったけれど、彼の提案に乗らない選択肢はなかった。


「わあ、面白そう。ぜひお願いしたいな」

「わかりました。では全教委員会に連絡しておきます」

「ありがとね、セラディス。あたしのためにいろいろ考えてくれて」


 彼は後ろめたさの残る笑みを浮かべる。そんな顔しなくてもいいのにな、とあたしは思うが、口には出さないでおく。彼のそういうところが、あたしは嫌いではなかった。



 セラディスが出かけて間もなく、司祭館の玄関ベルが鳴った。

 ドアを開けると、そこに立っていたのは詰襟の制服を着た十五、六歳の少年だった。


 髪は陽に透けるような柔らかい栗色で、瞳は琥珀色に近い。ぴしっと立っているのに、はにかんだ笑みを浮かべる姿は、どことなくセラディスに似ていた。


「はじめまして。今日一日、マナシア様のガイドを務めさせていただきます、ミシェと申します」

「ミシェ、よろしくね」


 彼はセラディスの言ったとおり優秀な学生だった。聖都アウレリアの主要な教会、孤児院、信者たちの集会所、それから彼の通う神学校。ガイド慣れしているらしくルートはスムーズで、各所を巡りながら立て板に水を流すがごとく溢れる案内文言には知識と教養高さが感じられた。それらはきっと、彼がその勤勉さゆえに獲得できたものなのだろう。


 隣同士並んで歩きながら、あたしたちは少しずつ打ち解けていった。といってもミシェは女であるあたし――もしくは人妻であるあたしにだいぶ遠慮して、距離をとって歩いていたが。


「神学校って、どんなところなの?」

「厳しいですよ。特に教義や聖典の暗唱は、間違えると居残りです」

「ミシェも居残りしたことある?」

「はい、恥ずかしながら。でもそのときは、仲の良い友人と一緒でしたので、辛くはなかったです」

「そっか。学校、やめたくなったりしない?」

「いいえ、まったく。同じ信仰を持つ仲間と共に学べるのは、とても幸せなことです」


 彼は言葉を選びながら丁寧に答えてくれる。その姿は確かに少年なのに、言動はあたしの思う十代半ばよりやけに大人びていて、そのちぐはぐさが、いたいけに感じられる。


「……ミシェって良い子だね」

「そうでしょうか」

「そうだよ」


 ミシェの目は少し困ったようにあたしを見た。その視線の意味がわからないまま、あたしの興味は彼の次の言葉に奪われる。


「だとしたらそれは、ユダリスク司教様のおかげです」


 またこの台詞か、とあたしは胸中で身構えた。


「アウレリアの神学校の教えは、ユダリスク司教様の教えそのものですから」

「……ユダリスク司教って、ミシェにとってどんな方?」

「とても、素晴らしいお方です。清らかで、美しくて、賢くて、何より……」

「何より?」

「……あんな方に見染められたなら、それはもう、幸福としか言いようがありません」


 あたしは隣を歩くミシェの横顔を盗み見た。その夢見るような表情に、嘘偽りはないように見えた。



 夕方、空が染まり始めたころ、ミシェが不意に立ち止まった。


「マナシア様、最後にもう一か所だけ、お見せしたい場所があります」


 彼はあろうことか、薄暗い裏通りを指し示した。


 あたしはすぐには答えなかった。考えていた。もうじき日が暮れる。その前には戻るようにとセラディスと約束している。それにセラディスは、裏通りには行くなと言った。


 あたしの迷いを察したらしく、ミシェがつけ加える。


「大丈夫です、それほど時間は掛かりません。それに僕もよく通う場所ですし、このあたりのご婦人方もよく出入りされています」

「……わかった、そこまで言うなら」


 ミシェに先導されて細い路地を入っていくと、やがて小さな空き地に辿り着いた。

 ぐるりと見渡して目についたのは、半端に積まれた木箱と樽、何かの石像の台座部分、金属部分が錆びた木枠の台車、板切れを組んだだけの小さな犬小屋。


「何の場所?」

「少し、お待ちください」


 間もなくして、犬小屋の中から一匹の猫が現れた。と思うと、あれよあれよという間に四方八方から猫たちが顔を見せ、じわじわとミシェの足元に寄ってくる。


 ミシェは慣れた様子で簡易小屋の中に手を入れ、器らしきものを三つ取り出すと、ポケットから出した巾着の中身を均等に空けた。

 たちまち猫たちが器に集まり、カリカリ音を立て始める。


 ミシェはあたしを振り向いてニコッと笑った。今日見た中で一番、子どもらしい笑みだった。


「ここ、猫たちの集会所なんです。近所の人たちが少しずつ餌付けしてて。あっ、その子、触れる子です。引っ掻きません。マナシア様の後ろの縞模様の子」


 言われて背後を振り向くのと、ふくらはぎの下あたりに毛並みが擦りつけられるのを感じたのとはほぼ同時だった。黒と灰色の縞模様の猫があたしに体を寄せてきている。


 あたしはしゃがみ込み、その子の背を撫でた。なめらかな手触りが心地よく、ダイレクトに心を癒される。


「えへへ、可愛い。この子たちに名前ってあるの?」


 緩んだ顔のまま、ミシェを振り向く。


 ――そこに彼の姿はなかった。


「あれ? ミシェ?」


 立ち上がってあたりを見渡す。

 次の瞬間、背後から伸びてきた大きな手が、あたしの鼻と口を塞ぐ。

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