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第38話:誘拐

 声を上げようとした瞬間、口の中に布のようなものを押し込まれた。ぎゅうぎゅうと目一杯詰められて、舌だけでは吐き出せない。


「ん゛ーっ! んんーっ!!」


 大柄な男の腕が背後からがっしりとあたしの体に巻きついている。逃れようともがいているともうひとり、目のところに穴を開けた布袋を被った男が現れて、ふたりがかりであたしの手足を縛っていく。

 手は背中側で手首を交差させて、足は足首を合わせて硬い紐でぐるぐる巻きにされるのを感じた。


 痛い、と思わず出た悲鳴は詰め込まれた布に吸い込まれる。


 口を開いた大きな布袋が目の前に投げ出された。その中に入れられると悟ったあたしは必死に体をよじる。でも、背後から抱き締めるように拘束してくる腕はびくともしない。


 持ち上げられて足先が浮く。足首を括られた脚を海老のようにバタバタと振るが無意味だった。あたしの靴のヒールが何度打ちつけられようと、背後の大男は呻き声ひとつ漏らさない。


 トン、と布袋の中に足がつき、いよいよ絶望する。大男に体を押さえつけられたあたしを足元から順に覆うように、もうひとりの男が布袋の口を持ち上げていく。


 膝、腰、胸、肩――そして視界が遮られ、頭の上で巾着型の口がきゅっと閉められる。


 粗末な布の内側は埃臭く、息苦しい。布目の間からわかるのは、外の明暗くらいだ。


「ん゛んーっ、ん゛んーっ!」

「騒ぐな。暴れるな。いいか、こっちは腕の一本くらいなら折ってもいいと言われてんだぜ」


 低く脅すような声が袋の外から聞こえた。あたしは動きを止める。体が震える。恐怖と、何が起きているのか理解できない焦り。心音が耳の奥で反響する。


 ぐいっ、と勢いよく体が持ち上げられた。腹のあたりに何かが当たる感触があり、そこからくの字に折れるように上体が逆向く。

 担がれている。たぶん後ろから羽交い絞めにしてきた大男のほうに。


 間もなく男が歩き出す。男の肩に当たった腹部が圧迫されて、歩く振動が内臓を揺らす。


 気持ち悪い。


 揺れと極度の緊張が、あたしに吐き気を催させる。けれども口を塞がれていて、どうせ吐けやしない。


 どこへ行くのだろうかと耳を澄ませた。男たちの足音と、遠くで聞こえる子どものはしゃぎ声。子どもたちは、今まさに女がひとり、さらわれている最中だなんて知る由もない。


 やがて男の歩みが止まった。


「合言葉は?」

「オイ、俺らだぜ、よく見ろよ」


 と不満げに答えたのは、先ほどあたしを、腕の一本くらい折れると脅した声だ。聞こえてくる距離感からいって、あたしを担いでいる男ではない、もうひとりのほうだった。


「なんだ、お前らか。何やってんだよ、ふたりしてそんな袋かぶって。何運んでんだ? ヤバいもんか?」

「うるせえな、黙ってさっさと開けろや」

「はいはい、気の短いことで」


 キィ、と扉の軋む音。あたしを担ぐ男が歩き出す。

 布袋の外が暗くなる。振動の種類が変わり、階段を下りているとわかった。足音の響き方も変わった。狭い通路のような場所を下っているように聞こえる。


「へへっ、これで6,000セルク手に入るなんてボロいな」

「黙っていろ。耳は塞いでいない」

「悪ぃ悪ぃ」


 セルクはこの国の通貨単位だ。あちこちの店を見て回ったあたしの体感だと、1セルクが現実世界の日本円で約150円。

 ということは6,000セルクは……大まかに見積もって90万円?


 何それ? 身代金? ……にしては、安い。人を誘拐するリスクに見合わないような気もする。


 考えながら、思考力の低下を感じ始める。上体が逆さまになっているせいで、頭に血が上ってぼうっとしていた。

 この階段はどこまで続いているのだろう。


 階段の先の方から、ざわめきが耳に届き始めた。間もなく平地に辿り着き、布袋の外が明るくなる。どこか開けた場所へ出たらしい。


 人がたくさんいる気配と音。

 快活な話し声、赤子の泣き声とあやす母の声、重い荷車を引く軋み音、鍋を叩くような金属音、雑多な足音。


 どこかで聞いたことのある感じ。これは何だったかと記憶を辿り、思い出す。聖都アウレリアへ来る途中に一泊したアルマータの町。その夕暮れどきの市場の喧騒が、これに似ている。


 ここは一体どこだろう。わずかに食べ物の調理される匂いも漂ってくる。屋台だろうか。


 男は歩き続ける。やがて薄暗い道へ入り、喧騒が徐々に離れていく。


 立ち止まり、扉の開く音。建物の中へ入った。木造りらしい床を軋ませて男は歩いていく。

 左右に何度か曲がり、いくつかの扉をくぐっていく。


 また扉が開く音。その直後、体がぐんと引っ張られ、背中に鈍い衝撃。布を噛んだままウッと声が漏れる。


 まるっきり床ではないけれど、床の上に潰したコッペパンを敷き詰めた程度の拙いクッション性。打ちつけた肩と背中がジンジンと痛む。


 離れた場所で扉が閉まり、鍵のかかる音がした。

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