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第43話:反撃の代償

 どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。


 悔しい、と抱えた膝の上であたしは唇を噛んだ。時間が経つにつれて羞恥や傷心よりも怒りが勝っていく。


 許せない。ヤツにひと泡吹かせてやるっ……!


 ヤツはもう一度この部屋に入ってくるはずだった。あたしの様子を見るためと、食器を下げるために。

 あたしは三角座りでうずくまったまま、そのときを待った。


 果たして、扉は開けられた。

 男が歩いてきてあたしのそばに屈み込む。そして、黄色い液体の入った器に手を伸ばす――今だ!


 あたしは男よりも先に器を掴んだ。そして男に向けて振り上げる。

 男の手が咄嗟に器を弾く。上昇と下降、相反するふたつの力で揺さぶられた液体は、空中で飛散してあたしと男の両方に降り注ぐ。


「っ……このっ……!」


 男は舌打ちし、布袋の奥からあたしを忌々しげに睨んだ。

 くそう。布袋のせいで、顔に掛けることはできなかった。

 あたしのほうは、なんか口に少し入ったような気がするのにっ(最悪っ)……!


 殴られるかと思って身構えたが、男は何も言わずに空になった器をひったくり、荒々しく部屋を出ていった。


 次に戻ってきたとき、男の手にはナイフがあった。


 うそ、うそ! まさかそんなに怒るなんてっ……!


「ごっ、ごめんなさいっ! 悪気はなくて」


 いや、あった。悪気しかなかった。

 でもこう言うしかないじゃん!


 しかし男は、戦々恐々とするあたしを横目に机のほうへ歩いていき、ナイフを置いた。そして今度こそあたしに近寄ってくる。

 その手にはハンカチ大の薄汚れた布があった。


「えっ、えっ、何……」

「動くな。怪我をさせる気はない」


 男は、床に座ったままのあたしの背後に回り込む。振り向こうとしたら「動くなと言った」と釘を刺され、あたしは顔を正面に戻す。


 上からさっと何かが下りてきて、あたしの視界を塞いだ。一瞬見えた形状と色から、男が持っていた布だとわかった。


 目の上を覆った布は、何度か折り畳まれて厚くなっているようで、布越しには何も見えなかった。

 後頭部でぎゅっと布が結ばれて、そのきつい締めつけに思わず顔が歪む。けれど、痛いと文句を言える状況ではないことは、わかっている。


 男の気配が離れていく。そしてまた近づいてきて、がさついた手があたしの足首に触れた。

 動くなと言われたが、驚いて少し足を引いてしまう。


 足首を束ねる紐を引っ張られる感覚があり、ブチンという音と共にそれがなくなった。

 男の両手が足首の周りを這う。間もなく気づく。紐が解かれた、と。


「立て」


 あたしは言われたとおり、まだ縛られている両手で体を支えながら立ち上がった。

 左の二の腕を、突然掴まれて体が強張る。でも痛いような力ではない。


「歩け」


 引かれるまま、あたしは足を動かした。

 部屋を出ていく。左に曲がる。右に曲がって、また左へ。

 一度止まり、扉を開ける音がして、また進む。足裏の感触が、木の板から石へと変わる。


「屈め」


 命じられるままに膝をついた。

 直後、頭上から液体が降り注ぐ。


「ひゃっ……つめたっ……!」


 冷水だった。


 あたしが老人だったら心臓止まってる!


 それが何度も続く。二回、三回、四回、五回……

 ワンピースドレスが水を吸い、体に張りついて肌の表面から体温を奪っていく。

 歯の根が合わず、がちがちと鳴った。


 男はびしょ濡れのあたしを立たせ、再び引っ張って歩かせた。

 そしてまたどこかの部屋に入って立ち止まると、あたしの手首を括る紐を切った。

 自由になった両手に、ぐいと大きめの布が押しつけられる。

 扉が閉まり、鍵の掛かる音がした。


 男の気配はしない。

 あたしは押しつけられた布を片手で持ったまま、もう片方の手で目隠しの布をとった。


 そこは、元いた部屋だった。

 持たされているものを見てみると、汚れた薄いタオルと、生成りのTシャツだった。体を拭いて着替えろということか。


 しかし、広げてみたTシャツは粗末なものだった。襟ぐりは伸びているし全体的にヨレヨレだ。男用なのか、サイズも大きすぎる。そして、下に履くズボンなどはない。


 こんなのに着替えたら、超ミニのワンピース状態になってしまう。でも、今着ているドレスは冷たい水に濡れていて、とても着たままではいられない(それ以前に尿で濡れてはいたが)。


 背に腹は代えられないと思い、あたしは濡れたドレスを脱いだ。せめてもの救いは、下着があまり濡れていなかったことだ。さすがに下着まで脱いでTシャツ一枚にはなれない。


 タオルを首元に当てると、生乾きの臭いがした。我慢して無心で水分を拭い、Tシャツを着る。

 やはりサイズが大きく、伸びた襟ぐりがずれて肩が片方出そうだった。丈も短く、動けば下着が見えてしまいそうだ。誘拐された地でこの格好でいるのは正直、落ち着かない。


 下半身が心もとなく、あたしはベッドへ入り、掛布団を腰まで引き上げた。

 かび臭さがふわりと鼻を突いた。


 体はまだ冷えていたが、肩まで布団に潜る気にはなれなかった。

 あたしは寒さを和らげるため、自分自身を抱き締めて、Tシャツの袖から露出した腕を擦った。

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