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第44話:貞操の危機

 窓も時計もないため時間はわからない。けれど、もうとっくに日は暮れているはずだった。


 セラディスはどうしているだろう。あたしが帰らないことで、きっと心配しているに違いない。

 あたしには、聖都アウレリアでの滞在の間セラディスを守るという使命がある。なのに今、守るどころか自分が誘拐されて閉じ込められている。


 身代金目的だとすれば、セラディスに連絡がいっている可能性もある。そのことでもし彼の足を引っ張っているとしたら……考えるほど胸が締めつけられ、鬱々とした思いが広がっていく。


 その時だった。


 カチリと開錠の音がして、扉が開いた。

 現れたのは、先ほどの大男ではない、別の男。最初にあたしを誘拐した、もうひとりのほうだ。この男も顔に布袋を被っている。


「こんばんはぁ、お嬢さん」


 ねっとりとした声音。男の目が気味悪く細められる。

 嫌な予感が背筋を這い上がり、あたしは警戒を強めて壁際へと身を寄せた。短いTシャツと下着だけという格好で布団から出るのも躊躇われて、ベッドの上からは動けなかった。


 男は鍵を使い、内側から施錠した。その目は爛々らんらんと輝いている。


「なぁ、あんた。まだ二十五歳になってないんだろ? ってことは処女だよなぁ?」


 貞操の危機を直感した。


「変態! こっち来んな!」


 声を張り上げるが、男はにやにやと楽しげに近づいてくる。


「へっへー、そそるなぁ、処女の人妻ってヤツぁ。偉大なるアレオン神様は大した性癖の持ち主だぜぇ」


 男の下品な言葉にゾッとし、羞恥心を捨ててベッドから飛び出した。裸足で部屋の反対の隅まで駆ける。


「おうおう、カモシカみてぇな脚だなぁ。逃げ足の早さも見た目も」


 男の視線があたしの脚の上を舐めるように上下した。気持ち悪い。


 男がじりじりと迫る。あたしも横へ横へと壁伝いに逃げるが、机と椅子にぶつかってしまった。

 咄嗟に椅子を掴んで投げつけた。けれど、簡単に避けられてしまう。椅子は大きな音を立てて床を転がった。


「いいねぇ、オレぁ無抵抗の女とヤるより、多少抵抗された方が上がる性質たちなんだ」

「うるさい! 誰がお前みたいな誘拐犯と!」

「夫のために大事な初めて守ってますってか? だからアレオン教徒の女は堪んねぇよなぁ。他人のモンを奪い取る快感と新雪を踏み荒らす快感を、同時に味わえるんだから」


 他に武器になるものはないか。

 あたしは机に手をかけて力いっぱい引きずり倒した。上に乗っていた蝋燭立てが床に落ち、横倒しになった蝋燭がふっと消える。


 暗転。

 室内唯一の明かりを失い、周囲は闇に包まれた。見えるのは、扉の隙間から僅かに細く漏れ入ってくる廊下の明かりだけ。あたしから男の姿は見えない。男からもまたそうだと思った。


「おおっと、おイタが過ぎるぜぇ」


 その声で男の位置を把握し、それとは反対に逃げる。足音を殺し、呼吸を殺した。

 目が慣れるまではまだ掛かる。その前にどうにかして男を行動不能にしたい。


 足先に、硬い木のようなものが当たった。さっき投げた椅子だ。あたしは下に手を伸ばしてそれを引き寄せ、両手で背もたれの部分を握る。


 少しでも見えるようになったら、今度こそ、これを男にぶつける。いや、確実に気絶させるために、できればこれで男の頭を殴りたい。

 こんな硬い木で殴ったら、もしかすると死んじゃうかもしれないけれど、自分が犯されるかどうかというときに、相手の命の心配などできるものか。

 これは正当防衛だ。


「お転婆だなぁ」


 声は、すぐ背後から聞こえて耳の産毛をかすめた。心臓が跳ねる。

 椅子を振り上げようとしたあたしの手は簡単に捻り上げられた。


「痛いっ!」

「安心しろって、すぐ気持ちよくしてやるからさぁ」


 ドンドンドン


 扉が叩かれた。


「おい、何をしている」


 その声は、先ほどまでの大男だった。「手を出す気じゃないだろうな」


 あたしの腕を捻り上げている男が答える。


「ああん? 手を出すななんて誰が言ったんだよ?」

「出していいとも言われていない」

「いい子ぶんなよ、甘ちゃん野郎。どうせ『ラピスラズリ』に連れてくんだから同じじゃねえか。初めてをきたねぇオッサンに奪われる前に、俺がやさしーく抱いてやるんだよ。な? 慈善事業だろ?」

「馬鹿言うな。オーダーは、さらって『ラピスラズリ』へ連れていけってところまでだ」

初心うぶかよ。傷モノにしろってオーダーだろ。夫に顔向けできねぇように、さ。気に食わねぇってならどっか出てろ。邪魔だ」


 ガチャガチャガチャ

 ドンドン


「おいっ、本当にやる気か!? あの方に知れたら――」

「うるせえよ! お前が黙ってりゃいい話だろうが」

「……とめたからな、俺は」


 あの方? あの方って誰? ラピスラズリって……?


 考えようとした頭はすぐに注意を逸らされる。男があたしの体を引きずり始めたのだ。

 向かう先はわかっている。


「いやっ、離せっ! いやだっ!」

「いいねぇ、いいねぇ。そそるなぁ」


 背後から拘束する男の生温かい息が頬に触れ、全身に鳥肌が立つ。

 暴れるほど捻られた腕が痛み、引きずられて擦れた足の裏に木のささくれがちくちくと刺さる。


 圧倒的な力の差。恐怖と焦りで荒くなった息が震える。


「夜は長いぜぇ……なあ」


 耳元で上がる、下卑た笑い声。

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