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第45話:牙を剥け

 ベッドへ放り投げられて、間髪入れず、男が上から伸し掛かってくる。両手首を頭の上で押さえつけられ、下半身は男の重みで動けない。


 くそっ、くそっ。


「離せ、変態! 触んなっ!」


 体をよじって必死に暴れた。けれど動くたびにTシャツが捲れ上がり、下着や腹があらわになっていく。暗闇の中なのに、目が慣れたせいで男の下品な笑みまでよく見えてしまう。


「いいねぇ、いいねぇ……」


 心拍数が上がっていく。逃げたい、嫌だ、誰か助けて。


 助けなど来ない、そう都合よく。現実は映画やドラマじゃないんだから。

 この世界にトウマはいない。

 セラディスが愛しているのは、あたしであって、あたしじゃない。


 男の手がTシャツの裾から潜り込み、無遠慮に腹を這い上がってくる。冷たくざらついた手のひらが、生き物のように皮膚の上を動き、嫌悪感が全身に走る。


 その手が胸元へと移動し、ブラ越しに胸を揉む。そこに情緒や愛情はない。ただ物理的に形を確かめるような触れ方。それでいて、動物的な性のにおいが色濃く感じられる動き。


 指先が、ブラの下に潜り込む。


「ッ……」


 鳥肌が立った。硬い指が先端を転がすように弄ぶ。きゅっと強く摘ままれて、痛みと屈辱で涙が滲んだ。


「どうだい、旦那はまだこんなのしてくれねぇだろ」


 これが愛撫のつもりなのか。得意げにも聞こえる声が心底不快で、反吐が出る。

 笑わせるな。トウマの手はもっと優しくて、気持ちがよかった。


「この下手くそ」


 あたしの言葉に、男が一瞬怯んだ。その隙を突いて、渾身の力で脚を動かし、男の横っ腹に踵の一撃を入れる。


「うぐっ……! こっ、のテメェ」


 男の手があたしの首に掛かる。グッと絞められて、意識が白く飛びかけた。

 駄目だ。ここで気絶したら最後までやられる。


 男の手を両手で掴み、爪を立てる。すると、締める力が少し緩んだ。けれど引き剥がすまでには至らない。


 喉が圧迫されてまともに空気を取り込めない。酸素不足の脳が朦朧としてくる。必死で爪を立てる手から力が抜けていく。片手がぱたんとベッドに落ちた。


 瞬間、首を絞めていた男の手が離れる。

 あたしは喉をヒュウヒュウ鳴らしながら咳き込んだ。生理的な涙が溢れてこめかみを伝い、鼻水が人中を垂れる。


「ああ、苦しかったなぁ。ごめんなぁ」


 どこか嬉しそうに男は言う。気持ちの悪いサディストめ!

 頬を包むように触れたその汚い手を、あたしは掴んだ。そして、親指の付け根に思いっきり噛みつく。

 鉄の味が口の中に広がった。


「ぐあっ……クソッ!」


 男がのけぞるようにしてあたしを振りほどく。


 カチィン、キィン、という金属音が床を転がった。


 バシッ!


 噛まなかった側の手で頬を張られた。衝撃音に遅れて、じんじんとした痛みがやってくる。けれど大人しくなんか、なってやらない。


 あたしはがむしゃらにもがき、男の下から下半身を引き抜いた。仰向けの体をうつ伏せに返し、逃げようと足でシーツを蹴る。


 後ろ髪をグッと掴まれた。


「こりゃ、おイタどころじゃねぇぞぉ。なあ?」


 髪を引っ張られて頭皮が痛む。あたしは男の手を逃れようと頭を振った。


 シーツを握りしめた手の横に、ぽとりと何かが落ちてくる。

 薄暗い視界の中、見覚えのある金属光沢――


 聖都ルミナスを出発する朝にエリオードにもらった、隠しナイフ仕込みのバレッタだ。


 あたしはそれを掴み、ボタンを押した。

 薄く鋭い刃が、シュンと一瞬で表れる。

 その刃を、髪を掴む男の手に、渾身の力で突き立てた。


「ぎッ……ああああッ!!」


 手の拘束が解け、あたしはベッドから転がり落ちるように逃げ出した。

 床に手をついたとき、指先に何かが触れた。鍵だ。

 さっき男の手を噛んだときに聞こえた金属音は、これだったのだ。


 視線を向ければ、ベッドの上で男が手首を押さえて呻いている。

 その手の甲には、バレッタの刃が深々と突き刺さっていた。


「このっ、クソアマ……!」


 怒りに震える声。男の目が、布袋の奥でぎらぎらと光る。


 あたしは鍵を握りしめ、扉に飛びついた。

 震える手でなんとか鍵を差し込む。回す。開く。


 そして、外へ駆け出した。

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