あたしは廊下をまっすぐ進み、突き当たりの扉を開けた。するとまた廊下が続いているので、止まらず走り、外へ続いていそうな扉を次々開けていく。
一軒家と呼ぶには入り組んでいて、屋敷と呼べるほど華美ではない建物内を、あたしは迷路を進むように駆け抜ける。
幸いなことに、あたしが閉じ込められていた部屋以外は施錠されておらず、人にも出くわさなかった。
いくつかの扉を開けたのち、ようやく外に出た。そこは、またしても――あたしがさらわれた場所と同じく――路地裏だった。辺りは暗く、道を行った先の大通りから漏れてくる明かりでなんとか足元が見える。
あたしは怖いもの見たさのような気持ちで、閉じ込められていた建物を振り返る。
廃病院のような様相の、複数階建ての建物だった。大通り側から聞こえてくる喧騒と比較して、ずいぶん異質な感じがする。もう生きているとは言えないのに、死に切れもしないまま、取り壊されるまでの間、永遠の"逢魔が時"の中で息をひそめているような。
こんな場所にいたら自分まで、元には戻れなくなりそうだ。
あたしは光の差す方向へ駆け出した。
大通りに出て、まず目についたのは、頭上の光源だった。通りの両側をジグザグに走る紐に、大小様々な不揃いのランタンが無造作に吊るされている。
お祭りの提灯のようだと思いながら見上げてみて、ふと気づく。この場所は屋外ではなかった。巨大な洞窟の中のような空間だ。なのに、まるで屋外のような雰囲気。
通りの両側には様々な屋台が並び、夜だというのに昼間のような活気がある。人々が行き交い、店主たちが威勢よく声を掛け合っている。
ここは、布袋に入れられ連れてこられたときに通った、市場のような場所に違いなかった。
ならば、ここから上へ上がる階段がどこかにあるはずだ。
あたしは人波を縫うように走った。裸足の足裏が小石を踏み、何度も痛みが走る。それでも、ここでまた捕まるわけにはいかないのだ。
Tシャツ一枚で大きく脚を出した格好のせいか、走り抜けた後ろの男たちから、口笛とからかいの言葉が飛んでくる。おば様たちからは非難が飛んでくる。
でも、聞こえない聞こえない。勝手に言ってろ。
インランぽいだとか、みっともないだとか、自分が一番わかっている。こんな半裸で髪もぼさぼさで、セラディスに会わせる顔はない。だけど、それでも今思うのは、彼のもとへ帰らなければということ。
こんなに必死で走るのはいつ以来だろうか。すぐに息が切れ、苦しくなる。マナシアと名のついたこの体はきっと、急激な運動には慣れていない。
そうだ。この体は別にあたしのものじゃない。あたしの本当の体は現実世界で死んだ。
あたしの本当の体は処女じゃない。トウマに会いに行くため、良いお酒を入れるため、プレゼントを贈るため、あたしは自分を切り売りした。別に後悔はしていない。嫌な思いをした分だけ、トウマがあたしを癒してくれた。
寝ても覚めてもずっと、あたしの世界のぜんぶがトウマだった。トウマがあたしを生かしていた。あたしはトウマのために生きていた。
ならば今こうして必死で逃げるのは何故だ。あたしのものでもない体を懸命に動かして。初めて人を刺してまで。こんな格好で髪を振り乱し、足の裏を痛めながらどうして走るのか。
それはセラディスのためだ。セラディスがこの体を――マナシアを大切に思っているから。教義を守って決して手を出さず、それでも両手から溢れそうなほどの愛を必死に抱え続けながらそばにいてくれるから。
あたしはそんな彼の脇腹を軽い気持ちでくすぐって、ほら、その愛こっちにこぼしてごらんよ、ほらほら、と弄んだのだ。
あの夜、あの宿屋の一室で。
翌朝、セラディスはそれをすべて、なかったことにした。あたしに謝らせまいと。
それは彼の哀しい思い遣り。
何かが償えるとは思わない。ただ、この体を守るのはあたしの義務だ。責任だ。それすらできないのなら、セラディスの妻としてそばにいる資格などない。
あたしは清い体のまま、セラディスのもとへ帰るんだ。
道沿いに連なっていた商店が、向かって右側だけ途切れている場所が見えた。そこまで走っていき、右折すると、洞窟状になったこの空間の壁面に、トンネル型の上り階段があった。
あたしはそこへ入り、階段を一段飛ばしで駆け上がる。息苦しさのピークは過ぎた。感覚が麻痺しているのか、頭の奥がカッと冴えていて、どこまでも上がっていけそうな気がする。ランナーズハイというものだろうか。
上を見ると果てしないので、目の前の段だけを見て着実に上がっていく。頭に浮かぶのは、トウマではなくセラディスの顔になっていた。同じ顔だ。でも違う。表情が違う。笑ったときの目尻の具合や、迷ったときの唇の動き、困ったときの眉の下がり方、あたしを見つめる瞳の柔らかな輝き。
目の前の段に、細い明かりが差し込む。あたしはハッと上段を見る。扉があった。その隙間から漏れたオレンジ色の光が下段を順々と細く長く照らしていた。
あたしが扉に触れる前に、扉は外側から開かれた。そこには――
あの布袋の大男が立っていた。
「お願い、逃がして」
「それはできない」
交渉の余地の微塵もない声音。あたしは叫んだ。
「だ、誰か助け――」
男の手が伸びてきてあたしの首を掴んだ。そのまま階段の壁面に押しつけられる。
あたしは男の手首に爪を立てる。苦しい。首から上が堰き止められた血液でパンパンになったかのような感覚がして、頭の中が白くなる。
白くなる。白く――