「こんばんは、お嬢さん」
「こんばんは」
と、一応しおらしく返事をしておく。
「隣にいていいかい? よく食べる女性を見ているのは気持ちがよくてね」
「はあ、どうぞ」
男は食事を続けて、と手で促した。あたしはフォークに刺さったままのサーモンのカルパッチョを口に入れる。男は傍らでワインを傾ける。
会話をする気はなかったので黙々と食事を続けていると、男が勝手に話し出した。
「初めて見る顔だ。前回の会にはいなかったね? 最近入ったのかな」
あたしは口に物が詰まっているので、うんうんと頷いて答えた。
「これはアドバイスでもないけれど、食事ばかり楽しんでいては、いい出会いは見つからないよ。女性たちを見てごらん。皆とても積極的だ」
咀嚼したものをごくんと飲み込む。
「そうですね。でもあたし、男性より食事のほうが好きなので」
「ハハ、あけすけだね。借金は? マダムにいくらで買われたんだい?」
マダムというのは女主人マダム・サファイアのことらしかった。
「さあ、わかりません。いくらぐらいだと思います?」
「そうだなぁ」
男の視線が品定めするようにあたしの体を這う。しまった、気持ち悪いな。変な質問をしなければよかった。
「4万セルクぐらいかな」
日本円で約600万円だ。
「それって娼婦として高いんですか? 安いんですか?」
「割と高いほうだとは思うね。きみは地下街出身ではないだろう?」
「え、あ、はい」
「上の女性はそれだけで価値がつく。言い方は最悪だが、もともと娼婦になどなりそうにない身分の女性が娼婦として体を売っている姿に興奮する人間もいる、という理由でね」
「へえ、じゃあもし、あたしが貴族の令嬢とかだったら、高級娼婦ってとこですかね」
男は笑って肯定し、流れるような動作でウェイターを呼び止めた。
「ブルームーン・ティアーズを頼む」
ウェイターは会釈をし、心得たという顔で去っていく。
間もなく彼は、二つのグラスをトレイに乗せて戻ってきた。片方を男に、もう片方をあたしに勧める。仕方ないので、食べ終えた皿と引き換えにグラスを取る。
「乾杯」
男が軽くグラスを掲げたので、あたしも真似して掲げ、ポーズとして唇を湿らせる。男がブルームーン・ティアーズ(青い月の涙)と言ったカクテルは、甘ったるくて実に女性向きだった。元夜職のあたしからすれば、やはりこれもジュースだ。
「ところで、きみはだいぶ若く見えるがいくつだい?」
「二十二です」
「そうか。アレオン教徒……だったりするのかな?」
「どうでしょう。家族はアレオン教徒ですが、あたし自身はよくわかりません」
夫という言葉は意識的に避けた。思い出したくはないが、あたしを手籠めにしようとした布袋の男が言った、アレオン教徒の処女の人妻を犯すのは堪らないというクソみたいな主旨の台詞が思い出されたからだ。
ああ、嫌だ嫌だ。記憶の彼方に押しやろう。
甘いカクテルをぐいっと傾ける。アルコール度数が低すぎて酔えないが、多少の麻痺薬くらいにはなる。
男の低い静謐な声が耳をくすぐる。この声音は別に嫌いじゃない。
「では、きみの神はどこにいるのかな」
「さあ、どこでしょう。そもそも神なんているんでしょうか」
「信じるものや
「神様がいるんなら、どうしてこんな場所があるんでしょうね」
少し厭味ったらしく聞こえたかもしれない。だが男は気分を損ねた様子もなく答えた。
「こんな場所がなければ、借金まみれで死ぬしかないような人間が、この世にいるからだろう」
「なるほど、これすら神の"救済"ですか」
馬鹿馬鹿しい、と思って、それを口に出す前にグラスで口を塞いだ。すっかり中身が空になる。
「そんなに怒らないでよ、マナシア」
と言ったのは、男の声ではなかった。振り向くと、そこには誰もいなかった。
いや、"人"は誰もいなかったというのが正しい。
視界の下方に、あたしの腰丈くらいの身長の、正装した白うさぎがいた。
白うさぎは懐中時計を見て焦ったように言う。
「ああ、時間がない。行こうマナシア」
なにこれ? 着ぐるみ? 小さいけど……中身は子どもだったりする?
というか男はどこへ行った?
白うさぎは二本脚で器用に駆け出す。あたしはとっさにそれを追いかけた。
白うさぎは、一夜の相手を決めた男女が消えていった奥の扉の前で止まり、小さな体で扉を懸命に引き開ける。
扉の向こうには、洞窟が続いていた。