薄暗い洞窟から漏れ出す、ひやりと湿っぽい空気が頬を撫でた。白うさぎはその中へ飛び込んでいく。あたしが動かないでいると振り返り、
「おいで、マナシア。怖いことなんて何もないよ」
ふっと足が軽くなった。自分の意思なのかどうか、わからないくらいに自然とあたしは歩き出す。
不意に、白うさぎの姿が消えた。本当なら怪しく思って立ち止まるべきなのに、あたしの足は止まらない。
地面を踏みしめる感覚が、突然なくなる。
あっと思ったときには遅く、あたしの体は重力に揉まれていた。
落ちるというよりは、海の中をゆっくり沈んでいくような、不思議な感覚。
周囲には様々なものが浮かんでいる。本や時計、ティーセット、ロッキングチェア、バレリーナ人形……。
それらの中を、あたしは下降していく。
やがてつま先が地面についた。白うさぎが待っていて、急かされるのでついていくと、木製の扉に辿り着く。
あたしの腰丈くらいの白うさぎがちょうど通れるくらいの扉で、あたしには小さい。屈んで手足を縮めながら中へと入る。
扉のサイズに合った室内は、やっぱりあたしには狭かった。中央にテーブルがあり、小瓶とメモが置かれている。
「"あたしを飲んで"?」
変なメモだなと思った。まるで小瓶自身がそう言っているかのようだ。
警戒すべきなのに、あたしは躊躇なく瓶を開けて中身をあおった。甘い味と、ハッカのようなスーッとする感じ。
あれ?
と思うが早いか、周囲の家具や物が大きくなっていく。手に持っていたはずの空の小瓶が、あたしの背丈と同じくらいのサイズになって倒れ掛かってきた。
「わっ、わっ、うそっ!」
何とか両手で受け止める。けど重い。長くは持たない。
「無理無理! 誰かぁ!」
小瓶がスッと後ろへ引いた。
「遊んでいる暇はないよ、マナシア」
白うさぎだった。あたしよりも小さかったはずが、今や顔を真上に向けないと全容が見えない巨大うさぎだ。
そのモフモフの手が下りてきて、あたしの体をふわっと掴んで持ち上げる。
白うさぎはそのまま、最初にくぐった扉よりもさらに小さな扉をくぐり抜け、薄暗い洞窟に出た。
前方に光が見える。そこへ向けて、白うさぎは駆け出す。
洞窟を抜けるとそこは、カラフルな森だった。木も葉も花も地面も空も、三歳児がクレヨンで塗った塗り絵みたいに、てんでバラバラな色合いだ。
その中を、白うさぎの手の中で揺れながら風を切って通過していく。
「ヒューウ! たぁのしーい!」
まるでテーマパークのアトラクションだ。
いつの間にか白うさぎの両脇を、見たことのない動物たちが並走していた。
「白うさぎちゃん、両サイドのは友だち?」
「違うよ、友だちじゃない。ドードー鳥に、クアッガに、フクロオオカミ。彼らは暇だから、走っているとこうして勝手に競争してくるんだ」
へぇ、と思って見てみる。丸々太った体と曲がったくちばしを持った鳥。体の前半分がシマウマみたいな馬。背中にトラ模様のあるオオカミ。
ドードー鳥が、息を整えて語りだした。
「昔々、天上の国に登る羽のない鳥がいて――」
「うるさいよ」
と白うさぎ。
ドードー鳥は、ムッと顔をしかめたかと思うと、その曲がったくちばしで白うさぎの腕をつついた。
わっ、と白うさぎが驚き、その拍子にあたしを取り落とす。あたしは色とりどりの葉の上を次々と跳ねていき、最後にむにっとした青いモノの上に着地した。
大型犬の毛の生えていないお腹みたいなその感触をモミモミ楽しんでいると、
「どいてくれないか」
ぼそっと聞こえた声は、毛の生えていないお腹からだった。あたしはしぶしぶ下りて、そのお腹の全体像を見る。
それは大きな青いイモムシだった。
「誰だ?」
とイモムシ。
「マナシアです」
「本当に? 名前は自分を定義するが、名前とはそもそも他人から与えられたもの。きみ自身が選んだものではないだろう?」
「まあ、そうですけど……マナシア以外ないっていうか」
「他人がつけた名前に、どれほどの真実があると思う?」
「でも、それで呼ばれ慣れてるから」
「慣れとは、檻の内側に敷いた絨毯のようなものだよ」
意味がわからない。
「真面目に答える必要はないさ」
頭上から声がして、見上げると枝の上に太った猫がいた。ニヤニヤと笑う唇から覗く、綺麗に揃った人間のような歯が、不気味に白い。
「世の中、適当に生きるくらいがちょうどいいよ、マナ
「違う、あたしマナ
「本当に?」
とまたイモムシ。
「本当だってば」
「名前なんてさ、何になりたいかによるよ、マナシ
「だからマナシ
周りの葉っぱがガサゴソと鳴り、白い長耳が飛び出した。
「ここにいたのかい、マナシア。時間がない、早く行こう」
白うさぎはまたしてもあたしを掴み、走り出す。