目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第12話 荀彧文若

 192年の群雄の名前を列挙してみよう。


 李傕、郭汜、劉虞、袁紹、曹操、劉表、劉焉、張魯、厳綱、単経、劉岱、陶謙、田楷、劉備、劉表、陳温、袁遺、陳瑀、公孫度、張邈、劉寵、鮑信、周昕、陸康……。


 この時点では有力者がおびただしく乱立していて、曹操、孫権、劉備に収斂する兆しは見えない。


 劉備は後に益州を攻略して、蜀の国を建てる。

 192年現在、益州牧は劉焉である。

 益州のうち、漢中郡は張魯が支配している。

 このふたりは特筆しておく価値がある。

 めまぐるしく中国の勢力図が書き変わっていく中で、益州の支配者は安定して劉焉とその子劉璋であり、漢中郡は張魯が治めつづけた。


 劉焉は目の付けどころがいい。

 州刺史に軍事力がなくて州を治めることができないので、軍権のある州牧制度を制定してはどうか、と霊帝の時代に提案した。

 そして自らがその嚆矢として、188年、益州牧となるのである。


 益州に目をつけた理由は、そこが漢帝国の西の果てであり、かつ険しい山脈に閉ざされた盆地で、守りやすく、独立しやすいから。

 董卓の暴政とその後の中国全土の混乱とは無縁に、劉焉は益州で悠々と自立した。


 かつて、益州には張陵という宗教家がいて、五斗米道を創始した。張魯は張陵の孫で、後継の指導者となっている。

 劉焉は足元に五斗米道教団があることを好まなかった。

 益州北部の漢中郡に押し込めようと考えた。


 劉焉は張魯に漢中郡太守の蘇固を攻めさせ、その後釜にした。

 漢中郡は五斗米道の楽園となった。

 同郡は長安と益州の経由地に当たる。

 劉焉は張魯が邪魔で、後漢朝廷と連絡が取れなくなったとの名目で、その支配下から逃れ、独立する。

 その状態は194年に劉焉が病死し、劉璋が跡を継いだ後もつづくのである。


 劉璋は漢中郡も支配したいと考えたが、張魯の独立志向は強く、従わなかった。

 益州牧は怒って、張魯の母と弟の張徴を誅殺した。

 以後、劉璋と張魯は敵対関係となる。


 なにはともあれ、劉焉は天才的であったと言える。

 益州の独立策は当たり、諸葛亮の天下三分の計によって劉備が侵略してくるまで、平穏を保った。

 劉璋が劉備に膝を屈するのは、214年のことである。


 曹操に視点を戻そう。

 反董卓連合軍解散後、彼は袁紹に身を寄せる。

 冀州牧の袁紹にとって目ざわりだったのは、冀州魏郡と兗州東郡で勢力を伸ばしていた黒山賊であった。

 袁紹は曹操に、黒山賊を討ち払え、と命令する。


 曹操は、汴水でともに戦った鮑信に協力を依頼した。

「一緒に黒山賊を討ってもらえませんか」

「喜んで」

 鮑信は快諾した。彼は曹操こそ英雄であると信じている。


 ふたりは意見を交換した。

「このままでは、袁紹が第二の董卓になりかねません」

「そうなるかもしれませんね……」

「あなたは黄河の南を切り取り、力をたくわえるべきです」

「それは面白い」


 曹操は鮑信とともに黒山賊を攻め、これを鎮圧し、東郡太守に任命された。

 兗州刺史の劉岱が、青州から侵入してきた黄巾賊に敗れて死んだ後には、兗州牧に昇進。

 こうして192年に、曹操は袁紹から離れ、自立した勢力となった。

 だが、青州で再び勃興した黄巾賊と対立することになる。

 この頃、冀州にいた荀彧が、袁紹は大業をなすことはできない人だと見限って、曹操のもとへやってきた。


 荀彧文若は、163年、豫州潁川郡潁陰県生まれ。

 荀氏は紀元前四世紀に活躍した儒学者荀況を祖とする。荀子とも呼ばれる彼は、性悪説をとなえ、孟子の性善説を批判したことで有名。

 袁氏ほどではないが、名門である。

 荀彧の祖父荀淑は朗陵県令であった。

 父荀緄は済南国の相を務めた。

 荀彧は青年時代に、人物評価家の何顒から「王佐の才である」と評されている。


 董卓の時代、荀彧は故郷の潁川郡が戦乱の地となることを予期して、一族を連れて冀州へ避難した。

 そこでいったんは袁紹に仕えたが、決断力に欠ける彼に失望し、曹操に頼ることにして、東郡へ移った。


「わが子房が来た」と曹操は言い、喜んだ。

 子房とは、漢の高祖劉邦の軍師、張良子房のこと。

 荀彧が張良であるとすると、曹操は劉邦であるということになる。

 曹操は群雄割拠時代を制して、新たな皇帝になろうとしているのか、と荀彧は思ったであろう。


 曹操としては、荀彧を最高の誉め言葉で迎えたつもりである。

 曹操は、荀彧が「王佐の才」と言われていることを知っていた。

 この頃、曹洪、曹仁、夏侯惇、夏侯淵が彼の幕僚であったが、皆、前線指揮官向きで、帷幕にいて作戦立案をする人物がいない。

 曹操はその役目を荀彧に期待した。

 すでに人材の有用性に気づき、あらゆる才能を集めたいと欲している。

 荀彧は、自分の策を用いてくれる限り、曹操に仕えようと決めた。


 荀彧は尊皇の志が篤く、後漢帝室の護持論者だったという説がある。

 それにしては曹操に肩入れしすぎている。

 荀彧尊皇派説の根拠は、彼が秩序を重んじる儒学者の血統であったからというにすぎず、薄弱である。

 彼はごく常識的な範囲で、漢の帝を敬っていただけであろう。


 潁川郡は学問が盛んで、人材の宝庫であった。

「人物を推薦してほしい」

 曹操にそう言われて、荀彧は年長の甥である荀攸を推挙した。

 その他、郭嘉、鍾繇、陳羣、華歆、戯志才らの名を挙げた。


 このときではないが、司馬懿も荀彧に推薦された人である。

 荀彧は極めて優秀な参謀となるだけでなく、スカウトとしても曹操の役に立った。

 彼は曹操に仕え、王佐の才を発揮していく。 

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?