赤壁の戦いには謎がある。
周瑜の火攻めが成功し、曹操は大敗した。多くの兵が焼け死に、討ち死に、曹操は命からがら、ぬかるみの華容道を通って逃げ延びた。
このようなあらすじの小説が多い。
だが、曹操はおろか、主な武将はひとりも戦死していないのである。
有名な武将は、赤壁でまったく死んでいない。
記録的な大敗北をして、このようなことがあり得るだろうか。
死者の多くは、病死だったのではないか。
208年冬。
この季節、赤壁では、北西の季節風が吹く。
だが、ある日ふいに、南東の風が吹いた。
周瑜は総攻撃をかけ、長江北岸、烏林に停泊している曹操軍の船団を焼き払った。
火は陸の天幕にも燃え移った。
「落ち着け、火を消せ、敵を上陸させるな」
曹操はそう指示を出した。
百戦錬磨の将軍たちは、火災が発生していない河岸を守り、揚州軍を上陸させなかった。
水上では多少の戦闘が発生したが、陸戦はほとんど起こらなかった。
数多の船が全焼し、焼死した兵は数万に上ったが、火攻めからまぬがれて、小型船で避難した兵も少なくなかった。
于禁ら将軍たちは陸地にいて、ひとりも戦死しなかった。
大敗の翌日、曹操はまだ烏林にいた。
なおも三十万を超える兵が指揮下にいて、陸戦ならば継続することが可能であった。
だが、長江を越え、揚州を征服するのは不可能となった。
北馬南船。
水軍なくして、孫権軍を倒すことはできない。
「撤退する」
ついに曹操は言った。
今回、揚州を制することはあきらめた。
「残念だ」
曹操は何度も愚痴をこぼした。
軍は江陵へ向かっている。
「丞相が生きておられれば、いずれは揚州を併呑することができましょう。荊州は征服したのです。この遠征に、まったく利益がなかったわけではありません」
賈詡はそう言ってなぐさめた。
「荊州七郡。北部三郡は長江の北にあり、これは維持できようが、南の四郡は孫権に奪われてしまうであろうな」
「そうなるでしょうね。やむを得ません」
「周瑜は江陵城を攻めるだろう」
「そこは曹仁殿に任せ、丞相はいったん許都までお戻りください」
「当分の間、長江には来れぬな」
「二十万近くの兵を失いました。すべてを立て直す必要があります」
「痛いな……。私は誰に負けたのだろう。周瑜に敗れたとは、どうしても思えんのだ」
「疫病に負けたのです。今回は運が悪かったと思いましょう」
曹操はできるだけ早く、再度の揚州攻略を行うつもりだった。
だが、彼が長江を見るのは、これが人生最後となった。
呉を滅ぼすのは、魏王朝の曹丕や曹叡ではなく、晋王朝の司馬炎である。
赤壁の戦い。
これが、魏が天下を統一する最後のチャンスになるとは、曹操は夢にも思っていなかったであろう。
曹操が大敗したことにより、天下のバランスが崩れ、三国時代が到来する。
中国史は新たなフェーズを迎える。
赤壁の後、周瑜率いる揚州軍は、江陵城をひと飲みにしようと押し寄せるが、曹仁が善戦する。
一年近くも籠城戦を行い、曹操軍が回復する時間を稼いでから、落城する。
しかも、周瑜はそのときに受けた矢傷がもとで病気になり、急死するのである。
希代の名将、周瑜を失って、孫権軍も勢いを失う。
赤壁の戦いでもっとも利益を得たのは、劉備である。
漁夫の利と言える。
曹操軍と孫権軍が死闘を繰り広げている隙に、劉備軍は荊州南部の四郡を奪う。
そして、その勢いのまま益州を征服し、天下三分を成し遂げるのである。
劉備と諸葛亮がもっとも輝いた三国志のハイライト。
しかし本作は、あくまでも曹操とその周辺の人物を追う。
乱世の奸雄の全盛は、官渡の戦いと赤壁の戦い。彼のクライマックスは大敗戦で終わった。
だが、本能寺で死んだ織田信長とは異なり、曹操は生きて、あがきつづけた。
この後、彼の死までの事績を点描していきたい。