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第41話 赤壁の戦い

 赤壁の戦いには謎がある。

 周瑜の火攻めが成功し、曹操は大敗した。多くの兵が焼け死に、討ち死に、曹操は命からがら、ぬかるみの華容道を通って逃げ延びた。

 このようなあらすじの小説が多い。

 だが、曹操はおろか、主な武将はひとりも戦死していないのである。

 有名な武将は、赤壁でまったく死んでいない。

 記録的な大敗北をして、このようなことがあり得るだろうか。

 死者の多くは、病死だったのではないか。


 208年冬。

 この季節、赤壁では、北西の季節風が吹く。

 だが、ある日ふいに、南東の風が吹いた。

 周瑜は総攻撃をかけ、長江北岸、烏林に停泊している曹操軍の船団を焼き払った。

 火は陸の天幕にも燃え移った。


「落ち着け、火を消せ、敵を上陸させるな」

 曹操はそう指示を出した。

 百戦錬磨の将軍たちは、火災が発生していない河岸を守り、揚州軍を上陸させなかった。

 水上では多少の戦闘が発生したが、陸戦はほとんど起こらなかった。

 数多の船が全焼し、焼死した兵は数万に上ったが、火攻めからまぬがれて、小型船で避難した兵も少なくなかった。

 于禁ら将軍たちは陸地にいて、ひとりも戦死しなかった。


 大敗の翌日、曹操はまだ烏林にいた。

 なおも三十万を超える兵が指揮下にいて、陸戦ならば継続することが可能であった。

 だが、長江を越え、揚州を征服するのは不可能となった。

 北馬南船。

 水軍なくして、孫権軍を倒すことはできない。


「撤退する」

 ついに曹操は言った。

 今回、揚州を制することはあきらめた。


「残念だ」

 曹操は何度も愚痴をこぼした。

 軍は江陵へ向かっている。

「丞相が生きておられれば、いずれは揚州を併呑することができましょう。荊州は征服したのです。この遠征に、まったく利益がなかったわけではありません」

 賈詡はそう言ってなぐさめた。

「荊州七郡。北部三郡は長江の北にあり、これは維持できようが、南の四郡は孫権に奪われてしまうであろうな」

「そうなるでしょうね。やむを得ません」

「周瑜は江陵城を攻めるだろう」

「そこは曹仁殿に任せ、丞相はいったん許都までお戻りください」

「当分の間、長江には来れぬな」

「二十万近くの兵を失いました。すべてを立て直す必要があります」

「痛いな……。私は誰に負けたのだろう。周瑜に敗れたとは、どうしても思えんのだ」

「疫病に負けたのです。今回は運が悪かったと思いましょう」


 曹操はできるだけ早く、再度の揚州攻略を行うつもりだった。 

 だが、彼が長江を見るのは、これが人生最後となった。

 呉を滅ぼすのは、魏王朝の曹丕や曹叡ではなく、晋王朝の司馬炎である。

 赤壁の戦い。

 これが、魏が天下を統一する最後のチャンスになるとは、曹操は夢にも思っていなかったであろう。

 曹操が大敗したことにより、天下のバランスが崩れ、三国時代が到来する。

 中国史は新たなフェーズを迎える。


 赤壁の後、周瑜率いる揚州軍は、江陵城をひと飲みにしようと押し寄せるが、曹仁が善戦する。

 一年近くも籠城戦を行い、曹操軍が回復する時間を稼いでから、落城する。

 しかも、周瑜はそのときに受けた矢傷がもとで病気になり、急死するのである。

 希代の名将、周瑜を失って、孫権軍も勢いを失う。


 赤壁の戦いでもっとも利益を得たのは、劉備である。

 漁夫の利と言える。

 曹操軍と孫権軍が死闘を繰り広げている隙に、劉備軍は荊州南部の四郡を奪う。

 そして、その勢いのまま益州を征服し、天下三分を成し遂げるのである。

 劉備と諸葛亮がもっとも輝いた三国志のハイライト。

 しかし本作は、あくまでも曹操とその周辺の人物を追う。

 乱世の奸雄の全盛は、官渡の戦いと赤壁の戦い。彼のクライマックスは大敗戦で終わった。

 だが、本能寺で死んだ織田信長とは異なり、曹操は生きて、あがきつづけた。

 この後、彼の死までの事績を点描していきたい。  

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