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第42話 孫権仲謀

 孫権は揚州の大部分を支配していたが、長江の北、九江郡は曹操の版図であった。

 九江郡南部に合肥という要衝がある。

 この地を巡って、曹操と孫権は攻防をくり返す。曹操の死後も攻撃するが、ついに孫権は合肥を奪うことができなかった。

 孫堅と孫策は軍事の天才であったが、孫権は戦がうまくなかった。

 赤壁の戦いの直後、曹操軍が弱体化したときですら、彼は勝てなかったのである。


 孫権仲謀は192年、徐州下邳県生まれ。孫堅の次男、孫策の弟である。

 孫堅が黄巾賊討伐に当たっていた少年時代、廬江郡の周瑜の家で暮らした。

 父の死後は、袁術の本拠地に住み、兄が雄飛すると、そこを離れた。

 孫策の死後、揚州の主となる。

 赤壁の戦いに際し、重臣たちの「降伏しましょう」という圧力に抗して、周瑜に軍の指揮を任せ切って勝利したのは、見事と言うしかない。

 しかし周瑜の死後、曹操や彼の後継者に対して、めざましい軍事的成功をおさめることはなかった。

 219年、呂蒙に関羽を討たせ、222年、陸遜に劉備を撃退させたのはやはり見事であったが、孫権自身が兵を率いて大勝したことはない。


 208年、赤壁で負けた曹操が北へ撤退した後、孫権は合肥城を攻撃する。

 曹操は、張喜と蔣済に救援の兵を授けたが、その兵力はわずか千人であった。蔣済はこれでは勝てないと悩んで、策をひねり出した。

 彼は大兵力の援軍が行くと偽って、複数の使者を合肥に送った。ひとりくらいは敵に捕まり、偽情報を吐くであろうという狙い。もちろん使者は真相を知らず、本当に大援軍が後方にいると信じている。

 策は当たった。孫権は使者を捕らえ、大軍が来ると信じて怖れ、退却してしまうのである。

 敵兵力を誤認し、腰が引けてしまった。まずい戦いであったと言うしかない。自らの指揮では乾坤一擲の勝負ができないという弱点が、このときすでに露呈している。


 215年には、孫権は十万の大軍を率いて、合肥城を攻めた。

 このとき、城には張遼、楽進、李典がいたが、守備兵は七千であった。孫権は十倍以上の兵力を持っていたわけである。

 しかし、勇猛果敢に城から撃って出た張遼に翻弄され、またも腰砕けとなり、撤退してしまう。

 敵将は優秀であったが、三人の仲は悪く、つけいる隙はあった。あくまでも戦い抜くという意志と戦術の工夫があれば、陥落させることはできたはずだ。

 孫権は戦が下手だと言われても、仕方がない。


 230年頃、孫権は毎年のように合肥城攻略をくわだてた。江湖に近く、水軍を使って兵を動かすことができるので、攻めやすい。目障りなこの城を落とし、北に進出したいという気持ちは持ちつづけているのである。

 233年には、孫権は三度目の合肥への大規模攻撃を実施したが、魏の都督揚州諸軍事、満寵の伏兵作戦に屈し、またしても撤退した。孫権の戦には粘りがない。


 満寵は、二代皇帝の曹叡に提言し、江湖からやや離れた地に合肥新城を建築した。孫権が合肥攻略を失敗しつづけているうちに、この地の守備がますます堅くなっていく。悪循環。

 ちなみに満寵は、官渡の戦いの頃、汝南郡太守を務め、袁術の残党を討っていたベテラン軍人である。曹丕、曹叡の時代には呉との戦いで奮闘した。238年に大尉の位に昇る。


 234年は、魏、呉、蜀の大戦争の年となった。

 蜀の諸葛亮は、第五次北伐を敢行し、五丈原で司馬懿と対峙。

 孫権はこれに呼応し、十万の兵を率いて、合肥新城を攻めた。

 北で五丈原の戦い、南で合肥新城の戦い。この年、蜀か呉のどちらかが勝てば、魏は多くの領土を削り取られた可能性もある。

 しかし、曹操が基盤を築いた魏には、底力があった。


 満寵軍は強く、孫権は苦戦した。攻城兵器が焼き払われ、甥の孫泰が戦死。

 さらに、曹叡が親征してくると知って、孫権は退いた。曹操の孫、曹叡には軍事的才能があり、司馬懿は北部戦線で負けないと見切っての南征行であった。

 実際、五丈原では諸葛亮が戦陣で病没し、蜀軍は退いた。孔明はついに、魏を攻略することができずに終わった。彼はすぐれた政治家であったが、軍事の天才ではなかった。

 ついでながら、曹叡の能力は、曹操には及ばない。軍事も興味を持ったり、臣下に任せ切りになったりした。宮殿建築に執着して、工事を乱発し、魏の財政状況を悪化させ、滅亡の一因をつくる。暗愚ではないが、名君とも言えない。


 呉の初代皇帝、孫権について総括しよう。

 彼は内治はうまかった。呉をしっかりと守り、魏に侵略されることはなかった。部下にやらせた蜀への攻撃は成功した。曹操、劉備と堂々と対峙した堅実な名君であったと褒め称えることができる。

 しかし兵を指揮する才能はなく、生涯こだわりつづけた合肥の城ひとつ、落とすことができなかった。

 魏は、孫権の戦下手に助けられたと言ってよいであろう。  

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