曹操の持病は頭痛であった。
赤壁以後、痛みは増した。華佗に鍼を打たせ、苦痛を減らしている。
「華佗、私の頭痛を根本治療できぬか」
「できないことはありませんが、頭蓋骨を切らねばなりません」
「頭蓋骨を?」
「頭の骨の中に、脳髄があります。それを調べて、悪い箇所を切除します」
「本当にそれで治るのか」
「五分五分といったところでしょうか。失敗したら、丞相のお命はなくなります」
「貴様、私の命を賭け事のように!」
曹操は怒って、名医華佗を殺してしまった。どうしようもなく、曹操はわかりにくい人である。冷静なのか、激情しやすいのか判然としない。戦でも、鮮やかに勝利したかと思うと、大敗したりする。
ついでながら、曹操が魏公に昇進しようとした際、荀彧はまだ時期ではないと考えて反対した。このときも丞相は激怒し、荀彧に自殺を強いた。彼は曹操に尽くしたあげく、殺されたも同然の最期を迎えた。可哀想としか言いようがない。
華佗と荀彧の死を、後に曹操は泣いて後悔する。
愚かかと思うと、賢明なことを行う。求賢令がその一例である。
「清廉な士だけを用いていたら、世の中をうまく治めることはできない。唯一必要なのは、才能である。才ある人を推挙せよ」
令を出したのは210年だが、曹操はこの考え方を生涯持ちつづけた。強大な魏国が誕生した一因は、彼の唯才主義にあったと言える。
ただし、汚職を憎み、清らかな人物を愛したことも事実である。清廉と才能……。求賢令には矛盾が内在している。清らかな凡人と才能ある濁人、どちらが官僚として優秀なのか、議論の余地がある。
乱世で勝つためには、才能がなによりも優先される、と曹操は考えていたのであろう。
さて、彼は実に多忙な人生を送っている。
211年には、益州北部の漢中郡を征服しようとした。
そこを支配しているのは、五斗米道の指導者、張魯。
五斗米道の創始者は、張魯の祖父、張陵である。
道教の一種。まじないにより治療を行う。信徒に五斗の米を差し出させたため、その名で呼ばれた。
張魯は、漢中郡を宗教独立国とでもいうべき地域にした。
益州牧の劉璋と対立したが、信徒を兵士として、漢中郡の独立を守り抜いた。
張魯の弟、張衛は優秀な指揮官だった。張魯は政治と宗教、張衛は軍事という分担ができている。漢中郡では善政が施されており、五斗米道の信者にとっては、天国のようなところであった。
211年、曹操は司隷校尉の鍾繇に兵を授けて、張魯征伐をさせようとした。しかし、それに乗じて涼州で馬超、韓遂らの反乱が起こり、うまくいかなかった。
漢中郡征服が成ったのは、214年。
曹操が自ら軍を統率し、陽平関で五斗米道軍と衝突した。激戦となったが、大規模夜襲に成功。信徒軍は壊滅し、張魯と張衛は逃走した。
この頃、劉備は成都を攻略し終え、益州の主となっていた。長らく流浪の将軍だった彼が、ついに豊かな地盤を得た。この時代には、数多の劇的な人生が花開いては散っていったが、蜀漢の初代皇帝、劉備ほどの奇花は他にないと言ってよい。
漢中郡に曹操がいて、目と鼻の先、蜀郡に劉備がいた。
「陽平関の勝利の勢いのまま、蜀へ攻め込みましょう」と夏侯惇は言ったが、曹操は首を振った。
「欲張りすぎると、足をすくわれる。漢中制圧の目的は達成した。今回はもうよい」
その後、漢中郡は劉備軍に攻撃されて、奪われた。劉備の勢いが曹操を上回っている。赤壁の敗戦後、曹操はやや精彩が欠けている。
一方、劉備は全盛期。諸葛亮、関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠、魏延、法正、馬良ら多彩な臣が集結し、この時期は人材面でも魏に見劣りしない。
219年、曹操は夏侯淵と張郃を派遣して、漢中郡を奪い返そうとした。定軍山の戦いが勃発。劉備がよく戦い、夏侯淵は戦死した。
張郃は生き延びた。劉備は彼を強力な敵と見て、「まだ首魁の首を取ってねえ」と言ったという。
曹操は、夏侯淵の仇を討とうとした。赤壁以来の大兵力を動員し、五十万の軍で遠征した。
劉備は高所に陣取り、地の利を活かす戦法で迎撃した。
「曹操がじきじきに来たって、負けはしねえよ。おれは必ず漢中を守り抜くぜ」
逃げ足の早さで生き残ってきた劉備とは思えないほどの強気さ。雑草が大木に生まれ変わったようである。
劉備は有言実行し、曹操軍に大損害を与え、徐州で負けた借りを返した。
曹操と劉備。ふたりはともに天下統一を果たすことができなかったが、項羽と劉邦にも劣らぬ人物であったかもしれない。楚漢戦争よりも、三国戦争の方が勝ち抜くのは困難であったとも考えられる。
張角、董卓、孫堅、呂布、孫策、袁紹、孫権……。誰が天下を取ってもおかしくない。百花繚乱の人材が咲き乱れた時代であった。
漢中郡は、劉備の死後も蜀の領土でありつづけ、諸葛亮の北伐の策源地となった。
孔明はここから出陣して、仲達と大激戦を繰り広げた。
再び魏の手に落ちるのは、諸葛亮が亡くなった後である。
姜維が活躍したが、徐々に蜀の国力は落ちていった。
263年、魏軍が大攻勢をかけ、漢中郡を占領。そのまま巴郡、蜀郡に攻め込み、鄧艾が成都に達し、二代皇帝劉禅を降伏させた。
ときの魏帝は、曹操の孫、第五代曹奐であった。
ちなみに265年、曹奐は司馬懿の孫、司馬炎から禅譲を迫られ、魏は滅亡する。事実上の簒奪である。