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第44話 馬超孟起

 211年、曹操軍による張魯征伐が中止となった原因は、涼州で勢力を持っていた馬超、韓遂らの反乱が起こったからである。

 馬超は、劉備に臣従し、蜀の将軍となったことで有名であるが、その前に潼関の戦いで、曹操を死の寸前に追いつめたことがある。

「馬超を殺せ。あやつが死ななければ、私は荒野で屍となるであろう」と曹操に言わしめた。


 馬超孟起は176年、司隷扶風郡生まれ。

 父の馬騰は、涼州刺史の耿鄙に見込まれ、将校に抜擢されたことをきっかけに、力を持つようになった人物である。

 涼州は中国北西部の辺境で、異民族の侵入が絶えない地域。悪政もあって、民は怯えながら暮らしていた。

 馬騰や韓遂ら力ある人物は、独立勢力として、涼州に割拠するようになった。


 曹操はこのふたりを危険視して、鍾繇を使って懐柔した。

 208年、馬騰は献帝に仕えることにし、宮殿守備の指揮官となった。

 馬超は涼州における父の勢力を引き継いだ。彼は錦馬超と呼ばれるほど、凛々しい容姿を持つ勇将。若い頃から異民族迎撃で活躍していた。


 張魯征伐を目的とする鍾繇軍が動いたとき、涼州の豪族たちは自分らが討たれるのではないかと勘ちがいした。

 彼らは馬超と韓遂のもとに集結し、十万もの大軍となって、反乱を起こしたのである。

 涼州軍は司隷になだれ込み、洛陽の西の要衝、潼関まで押し寄せた。曹操にとって容易ならぬ事態であった。急ぎ曹仁を潼関に派遣し、迎え撃たせた。


 曹仁は五万の兵でよく戦ったが、馬超が指揮する反乱軍を鎮圧することはできなかった。

 曹操は十万の軍を急遽編成し、賈詡、許褚、徐晃、朱霊らを連れて、潼関へ進軍した。曹仁の兵と合わせ、十五万の兵力。


 潼関には黄河が流れている。涼州軍は北岸に布陣していた。

 曹操軍は南から北へ渡河した。

 曹仁、徐晃、朱霊率いる軍が、涼州兵を蹴散らした。

 曹操は許褚とともに、最後に渡河した。

 馬超は自ら伏兵となって、このときを待っていたのである。曹操が上陸すると、騎兵隊を引きつれて急襲した。

 馬超が目前まで迫り、曹操はあやうく死ぬところであった。許褚が一騎打ちし、なんとか退けた。馬超は指揮官としては非凡だったが、個人的な武術では許褚にかなわなかった。


 曹操軍と涼州軍は対峙し、戦線は停滞した。曹操は軍師に相談した。

「賈詡、馬超を殺さねば、私がやられてしまうかもしれん」

「馬超と韓遂の不仲に乗じましょう。離間の計を講じます」

 韓遂は、馬騰と対立していた時期があり、馬超との関係もぎくしゃくしていた。


 曹操は、賈詡の謀を用い、韓遂とのみ講和する交渉を行った。

 策が当たり、馬超は韓遂を疑った。韓遂は戦意を失っていく。

 そして、曹操は総攻撃をかけた。韓遂隊は早々に撤退し、馬超隊は大敗。涼州軍は離散した。


 馬超は漢中郡に逃亡し、張魯に助力を乞うて、再起しようとした。

 張魯は馬超に好意的だったが、張衛は五斗米道軍を涼州の将に貸すつもりはなかった。張魯も弟に反対されてまで、馬超に尽くす義理はない。


 やむを得ず、馬超は劉備に頼ることにした。

 ときに214年。劉備は成都城を包囲中であった。益州牧の劉璋は、馬超まで劉備軍に加わったと知って、抗戦をあきらめて降伏する。


 この後、馬超は劉備の臣として過ごした。劉備は彼を重く遇し、関羽、張飛に次ぐ位を与えた。趙雲よりも上であった。

 しかし、馬超が蜀軍の中で雄姿を見せることはなかった。しょせんは外様である。大物だけに、警戒されていたのかもしれない。活躍の場を与えられなかった。


 涼州が曹操の手に落ちたことで、227年から行われた諸葛亮の対魏作戦は、困難を極めることになる。

 彼は五回に渡って北伐を敢行するが、ついに成功しなかった。

 魏延は長安急襲作戦をたびたび提案したが、諸葛亮は中原軍と涼州軍の挟撃を怖れて、実施しなかった。

 曹操が馬超に勝利したことにより、魏は諸葛亮の猛攻をしのぐことができた、と言えないこともない。


 曹操の戦は、鮮やかであった。常に軍事的目的を明確に持って行動した。大きく負けたが、大きく勝った。

 総合的に見て、三国志最高の武将は、彼であったと言える。  

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