目が覚めると、スマホのアラームをセットしたちょうど五分前だった。
ほんの二か月程度で、すっかり寮での生活にも慣れてしまったなと思いながら、欠伸を噛み殺す。
これが実家なら、イラついたお母さんのモーニングコールを横耳に「あと五分」なんて、心地よいまどろみに身をゆだねようもの。
けれど、いざ
つまり、私も人間だった。
部屋の隅に置かれた姿見を前に、身支度を整える。
流石にパジャマのままとはいかないし、
夏仕様の真っ白なセーラー服は、注意をしないと簡単にまだらな染みが増えてしまう。
いつも危険と隣り合わせ。
二、三人/一室が定番である寮生活において、私にはマネージャー部屋をひとりで使う権利が与えられた。
まあ、他にマネージャーがいないからというのが理由だけど、それでも完全プライベートな空間が与えられるのはありがたい。
その一方で、夜に他の部屋から楽しそうな笑い声が響いてくると、少し羨ましいなと思う時もある。
着替えを終えて廊下に出ると、他の部屋からもモソモソと身支度を整える音や、部員たちのくぐもった話声が聞こえて来た。これから朝練に出かけるんだろう。
朝の喧騒を凱旋パレードの聴衆のように感じながら、私は自分の仕事場へと向かって行った。
「おはようございまーす」
建付けの悪い引き戸をガタガタと開いて、私は誰もいない空間に向かって頭を下げる。
武道においては、これから練習を行ったり、試合を行う道場に向かって挨拶を行うという習慣がある。
それが道場という空間に対してなのか、それとも道場の神様的なお方に対してなのかはよく分からないけれど、その点で言えば仕事場――寮の炊事場は、私にとっての道場だ。
ここでは私も、部の一員として礼を損じないようにしなければならない。
昔は民宿だったらしいこの寮は、至る所にレトロな情緒を感じさせる。
タイル張りの床と流しに木製の作業台。
コンロは当然のようにビルドインではなく、業務用の一口鋳物コンロが横並びに二つ、ドンドンと鎮座している。
鋳物コンロは火力は申し分ないけど、普段使いをするには少々取り回しが悪い。
そのため、たいていは隣に増設された定番の五徳ガスコンロを中心に、料理に合わせて使い分けることになる。
セーラー服を守る申し訳程度の装備――エプロンを身に着けて、さっそく仕事に取り掛かろう。
まずは何を置いてもお米。
正直これが、一番の重労働だ。
寮生総勢十五名に私と顧問を含めて十七人。
このお腹を満たすお米を炊くには、二升炊きのガス炊飯器の力を借りるしかない。
全員女の子だからと言って侮るなかれ。朝練を終えた運動部員の胃袋は、吸引力自慢のサイクロン掃除機よりもすさまじい。
お米は計量カップの目分量で測っていたら、家庭用なら誤差で済む微量の差も、
だから基本はグラムでピッタリと測る。
少量の水を吸わせながら、お米に五本の指を立てるようにして、優しく十回程度シャカシャカシャカ。
米研ぎは多くても少なくてもいけない。
多いとお米が割れてしまうし、少ないとヌカ臭さが残ってしまう。
特に最近の精米技術は優秀なので、お米を
それくらい優しくして良いと言うことだ。違和感しかないけど、気持ちはわかる。
研ぎ終わったら水が透き通るくらいまで何度かすすいで、これまたピッタリ計量したお水を注いで、炊飯器にセット。あとは浸水させて炊くだけ。
全国の朝忙しいお父さんお母さん、社会人の皆さんには申し訳ないけど、お米は炊く直前に研いで浸水させたほうが絶対に美味しい。
こればかりは米どころ出身として、何を言い訳にしても譲れない。
お米の準備ができたところで、次はおかずの準備。
まずは煮込む時間がかかる汁ものから。
ごぼう、にんじん、大根、長ねぎ、こんにゃく。そこに豚バラを入れて豚汁にする。
豚汁を作るときは、先に野菜を鍋で炒めるのが鉄板だ。
炊き出しなんかでよく見る金色の大鍋で、ゴロゴロした大量の野菜を、木べらで、力いっぱい、全身の力を込めて、炒める!
中華料理の「油通し」みたいなもので、炒めることで野菜の中に旨味を閉じ込めて、汁に溶け出すのを防いでくれる。
ごろっと野菜の食べ応えある豚汁は、単なる汁物じゃなくって、それだけでおかずの一品として成り立つものだ。
何よりごぼう。
豚汁に於いて、というかお肉を使った和風の煮物料理に関してこれは必須アイテム。
理由はよくわかんないけど、ごぼうが入ることでお肉の味が何倍にも引き立つ……ような気がする。これは私の経験則として。
野菜を炒めたら、その上に豚ばらを散らすように敷いて、少量のお水で蒸し煮にする。
こうするとお肉が固くならずに、ゴロゴロ野菜にしっかりと火が通る。
火が通ったらひたひたになるまで出汁を足して、あとは食べる直前に味噌を入れるだけ。
出汁は、昨日の夜にとっておいたカツオとサバの節。カツオの香りとサバの甘みが溶け合った、私的至高のベーススープだ。
だしの素でも十分に美味しいものが作れるけど、どうせ厨房を任されるなら、こういうところはしっかりとこだわりたい。
そういえば、豚汁って何気に豚と魚介のダブルスープだよね。
世のラーメン屋でブームになるくらいなんだから、美味しくないわけがない。
豚汁を仕込んだところで、あとは主菜だ。
今日はサイドで豚汁もあるし、塩鮭と卵焼きを小量ずつ合盛りにしよう。
一回の食事に、タンパク源は二品以上。それが、この仕事を任されるうえでの、唯一の決め事だった。
五徳コンロに網焼きグリルパンを熱して、ツヤツヤの塩鮭を並べる。
塩で身が引き締まって、真っ赤に染まった鮭が、パチパチと染み出す油を爆ぜさせながら焼けていく様子は、その音と匂いだけでお腹がすく。
ジューシーな生鮭もいいけれど、朝は絶対に塩鮭派。
寝汗をかいてミネラル不足の身体に、強い塩味が麻薬のように染みわたる。
これだけでご飯が何杯も進むというもの。
空気を読んだように、炊飯器から、お米が炊ける甘い香りも漂ってくる。
右に左にワンツーパンチだ。でも、ノックアウトされるわけにはいかない。
塩鮭は時間をかけてしっかりめに焼くとして、その間に鋳物コンロの方で卵焼きを作る。
卵焼きはいろいろ種類があるけど、ここでは部員たちのリクエストにお応えして、お寿司屋で出るような甘い卵焼きにするのが定番だ。
まあリクエストである一方で、甘い卵焼きは塩鮭に対する良い箸休めになるし、塩味を一層引き立ててもくれるだろう。
溶いた卵に、豚汁用にとった出汁の残り、砂糖、そしてお塩。
甘くするかしないかにかかわらず、卵焼きにお塩は必須。
お塩の成分で卵の持つ粘り気がさらさらに変わるので、ダマのない滑らかな焼き上がりになる。
そこに私は、ちょっとマヨネーズを加えるのがポイント。
マヨを加えると、冷めてもふわふわジューシーな卵焼きになる。
マヨ風味は過熱で飛ぶので、苦手な人も問題ない。
もちろん、入れすぎれば味が残っちゃうけどね。
卵液の用意ができたら、鋳物コンロの火力でチンチンに熱した卵焼きパンを使い、一気に巻いていく。
じゅうじゅう音を立てる卵液は、砂糖を多めにしてるので焦げないよう注意しながら、表面に浮かび上がった気泡はすかさずお箸で潰す。
このひと手間が、口触りの良い卵焼きを作るうえではすごく重要。
中の仕上がりは、半熟で良い。
お皿に取ってからも余熱で固まるし、なにより大量に焼き上げなきゃいけない中で、しっかり火が通るまで見守り続けるのは時間がもったいないし焦げる。
ここは手早く、間に塩鮭をひっくり返すのも忘れないようにしながら、次々と巻いて、巻いて、巻く。
気分はさながら、ジャグリングでも披露する大道芸人のよう。ちょっと気持ちがいい。
時おり、ひとりで勝手に
まあ、料理中は調理場に人を入れない主義だから、傍で見てくれる人はいないけど――
「おはよう」
「わっ!」
声をかけられて、思わずひっくり返しかけた卵を落としそうになってしまった。
「あ、すまん。声をかけるべきじゃなかったな」
「い、いえ、いいんです。おはようございます!」
ドキドキする鼓動を抑えながら、私は振り返りざまに挨拶をする。
炊事場と食堂を繋ぐカウンターごしに、朝練を終えたらしい
シャワーも済ませて来たのか、しっとり濡れた髪からは、かすかに雫が伝っている。ちゃんと乾かさなきゃ、綺麗な黒髪が痛んじゃうのに……なんて思ってしまうけど、彼女にとっては「そんなこと」なんだろう。
それに、夏の朝のきらきらした日差しに当てられながら、ひと汗流してスッキリした顔で微笑む部長は、なんというか、めちゃくちゃカッコイイ。
とか見とれている間に卵焼きを焦がしそうになって、私は慌てて調理に戻った。
「お、今朝は卵焼き? やった」
「先輩方、おはようございます」
「おはようございます!」
続いて三年生の先輩がたが食堂に顔を覗かせ、瀬李部長に倣って挨拶をする。
ウチの部は、大半が県外越境勢であることもあり、上級生も卒業するまでは寮生のままでいるのが一般的だ。追い出されてしまったら、学校に通う家がなくなる。
しかしながら、部活を引退して朝練もなくなった彼女たちの朝は、現役部員たちに比べればゆっくりになる。
「何か運ぶ?」
「そんな、先輩方に手伝って貰うなんて」
「現役ファーストがウチの部のモットーでしょ。引退しちゃえば上級生も
「という気遣いを頂いたけど、なづな?」
「あ、じゃあ、お箸とご飯茶碗とコップを先に準備しておいて貰えると。その間に、できたやつをお皿に盛ってくので」
「おっけー」
遠慮がちな私と瀬李部長を余所に、先輩方はてきぱきとテーブルの上にカトラリー類を準備してくれた。もちろん部長も。
正直、この人数の食事をひとりで作るのは、それだけで手一杯なのでありがたい。
次いで、焼きあがった塩鮭と卵焼きを運んでもらっている間に、朝練を終えてシャワーを浴びた一、二年の現役部員たちが、次々と食堂に押し寄せた。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日の朝ごはん、何すか?」
「鮭と卵焼きと豚汁」
「お、ザ・日本の朝ごはんって感じ」
「ザ・朝ごはんに豚汁つく?」
「なづなちゃん、こっち味海苔つけてー!」
「ウチ、納豆!」
「梅干し!」
「ゴマ塩!」
「カウンターに置いとくので、勝手に取ってってくださーい!」
身勝手な注文に応えながら、味噌を入れて仕上げた豚汁と、
うーん……赤に黄色にと彩りは豊かだけど、ちょっと野菜が足りない気がする。豚汁があるとは言え根菜ばかりだし、葉物が欲しい。
仕方がないので、夕飯用に作っておいた、ほうれん草とえのきの煮びたしを出してしまおう。
冷蔵庫の中で昨晩からボウルで漬けておいた煮びたしを小鉢に盛り付けて、それも追加で運んで貰った。
「遅くなりました。皆さんお揃いですね」
ちょうど配膳が終わったころに、顧問の
さらりとした長髪が美しい彼女は、食堂に集まった部員たちに、にこやかな笑みを振りまく。
部員一同に一斉に緊張が走った。
座っていた人はすかさず立ち上がり、誰の号令もなく、一糸乱れぬ挙動で頭を下げる。
「おはようございます!」
「はい、おはようございます。ご飯が冷めるといけませんし、頂きましょう。
「は、はいっ!」
マネージャーの立場なのに、名前を呼ばれると怒られるのではと思ってドキリとしてしまう。
あんなに優しそうで、しかも美人の先生なのに、全国優勝経験もあるこの部においては、鬼のようなスパルタ指導で有名なのだ。
裏でついた異名が〝アカオニ〟。アカオリをちょっとモジってね。
待たせてほんとに怒られるのも嫌なので、あわててエプロンを脱いで、食堂へと走った。
そのままカウンター傍の指定席につくのを見届けて、上座に座る部長が、部員たちを見渡して号を発する。
「それじゃあ――いただきます」
「いただきます!」
県立
強豪としての名を馳せる我らが部に於いて、ここはそのレギュラー候補メンバーが集団生活を行う合宿所――女子剣道部寮だ。
私、山辺なづなは、この寮でマネージャー