その日の夜。
大忙しの夕飯ピークタイムを終えたころに、私は思い出したように、厨房へ向かって叫んだ。
「あ、今日の
揚げ油をじっと見つめていたお父さんが、顔だけ振り返って無言で頷く。
すると、表のレジの方からお母さんもひょっこりと顔を出した。
「今日のまかない、お父さんの特製あら汁だけど。アジフライの頭と中落ちで」
「う……うー、それも食べる! けど!」
何それ、絶対美味しいやつじゃん。
でも、久しぶりに腕を確かめておきたいものがある。
「何作るの?」
「えーっと……親子丼」
表はすっかり落ち着いて、晩酌タイムで
冷蔵庫から鶏もも肉、卵、玉ねぎ、三つ葉を取り出して、エプロンを装着。
よし、取り掛かろう。
あの後、剣道部マネージャーの入部テストのお題を話し合ったのだけど、
「何、作りますか?」
「何でもいいぞ。得意料理とかで」
「いえ、むしろリクエストして貰ったほうが
私の問いに、瀬李先輩は相変わらず半信半疑のまま、少しだけ考える時間を置いて答えた。
――じゃあ、親子丼で。
丼もの王道、親子丼。
誰でも手軽に美味しく作れるので、家庭料理の中でも定番のラインナップである。
その一方で、プロが作った親子丼は、まったく別次元の料理にも変貌する。
具材の切り方、火の通し方、火力の管理、卵とじのふわふわ具合。
単純な要素を掛け合わせた料理だからこそ、ひとつひとつの技術の習熟が試されるわけだ。
あの先輩が、それを分かったうえでお題に選んだのだとしたら、侮れないものだけど、果たして――なんて。
そんなことをぼーっと考えている間に、ほとんど手癖だけで料理は仕上がっていた。
お椀に盛ったホカホカのご飯に、丼用の小型パンから黄金色の
親子丼は、和風あんかけのようであって、あんかけほど全体が緩くなってもいけない。
火が通ってしっとりふわふわの卵を土台にして、その上にとろーり半熟卵を纏わせるイメージ。
対して鶏モモの旨味が溶け込んだ出汁は、卵とお肉に艶めかしい潤いと香りを与える高級化粧水か、フレグランスか。
その上にぱらぱらと、瑞々しい三つ葉の
「完成っと」
いつ読モに出しても恥ずかしくない、色気たっぷりの親子丼の出来上がり。
うん、今の私にとっては、なんてことはない料理だ。
さっそく、厨房の隅に椅子を出して、出来立てを頂く。
親子丼なら、お箸よりは匙が良いかな。
ふわりとしたアタマは、匙を突き入れても一切の抵抗がなく、その下で出汁を吸ってほろほろになったお米を一緒に掬い上げて、ひと口。
優しいくちどけの卵の旨味と、炒めた玉ねぎの甘さ、ぷりぷりとした食感の鶏もも。
噛めば噛むほど味の染み出るご飯と共に、香ばしい出汁の香りが鼻の奥いっぱいに広がっていく。
「はぁー、うっま」
溜息と共に、脊髄直結の感想が漏れた。
おいしい。
虚栄でも色眼鏡でもない、誠心誠意の真心こもった自画自賛。
そう言えば、小さい頃に初めて親子丼が上手にできた時は嬉しかったな。
さっきも言った通り、〝誰でも手軽に美味しく〟がウリのこの料理は、例えば卵に火が通り過ぎて天津飯みたいになっちゃったとしても、味は変わらず食べられる。
けど、やっぱり目指したいのは、ふわとろセクシーな親子丼で。
はじめてできた時には、お店が営業中だってのもお構いなしに、家族や、その場にいたお客に自慢して回ったっけ。
あれは、何歳の時だったかな……もう覚えてないや。
これを数日後の入部試験で作れば、たぶん余裕で通過してしまうことだろう。
作れれば――ね。
入部試験は、放課後の学校で行われることになった。
調理科であれば申請さえすれば、空き時間に調理室を自由に使うことができる。
ほとんどは課題や補習、コンクールの準備などの理由が多いらしいが、申請用紙には名目上「部活動」と書き添えた。
「私たちはここで待っていれば良いかな?」
「なづなちゃんの親子丼、楽しみにしてるね!」
部長は当然としても、なぜすずめちゃんまで?
この際問題なのは人数ではないので、良いけれど。
数人分をまとめて作ることができるのも、丼ものが持つポテンシャルのひとつだ。
沢山並んだ調理台のひとつにふたりを待たせて、私は隣の台に向かう。
流石に食材は常備されていないので、ついさっきスーパーから買ってきたものを、お気に入りのマイバッグから取り出すと、家同様にエプロンを身に着けて調理を始めた。
手順は何も変わらない。
玉ねぎをスライスし、鶏ももは削ぎ切りに。
一緒に炒めて火を通したら、調味料と出汁を計りながら入れて下味を整える。
……ちょっと薄いかな?
匙で味見をしながら、分量外の調味料で微調整。
仕入が違えば食材が含む水分量も変わるし、調味料の味の濃さも変わるので、レシピの分量を妄信してはいけない。
味付けは必ず、自分の
……まだちょっと薄いかな。
何度かの微調整を経て、ようやくこんなもんかと味が整う。
あとは卵を溶き入れるだけ。
ここからはタイミングの勝負だ。
火を入れすぎても、入れなさ過ぎてもだめ。
特に、入れなさ過ぎて生焼けのものを
食中毒なんて出した日には、目先の営業停止どころでなく、お店にとって一生モノの傷になる。
まだ……まだまだ……まだ……………………………………今っ。
小パンにかぶせていた蓋を取った瞬間、私は自嘲するような笑みを浮かべた。
やっぱり、こうなっちゃうか。
でも、これで良い。
私にマネージャーとして、料理を作らせようという彼女たちの願いを、これ以上ない説得力で断るには、これで――
「できました」
ふたりの前に、できあがった丼をサーブする。
期待に胸を膨らませて目を輝かせた彼女たちの顔が、目の前に置かれた料理を見た瞬間に、なんとも言えない顔に曇ったのを、私は諦めながら見届ける。
「これは……」
出来上がったのは、紛れもなく親子丼だ。
ただ、先に挙げたような、卵がぐずぐずに固まって、ご飯の上でスクランブルエッグ丼のようになってしまった
おそらく、半熟とろとろの親子丼をイメージしていたふたりにとっては、これ以上ない裏切りをしてしまったことだろう。
「まあ、味は良いかもしれないからな」
瀬李先輩が、下手な気遣いを口にしながら、匙を手に取った。
中身を掬って、艶やかに揺れる唇に運び入れる。
二、三度の咀嚼。
はじめは軽快なステップを踏むようだった口の動きが、不意に、奥歯に胡椒でも詰まったかのようにもたついた。
「ええと……何というか……」
「しょっぱいねぇ」
隣で同じように食していたすずめちゃんも、顔をしかめる。
私は、小パンに残った汁の残りを、指先で掬って舐めた。
うわ……しょっぱ。
塩と砂糖を間違えて作った
これは、過去イチの失敗かも。
「見ての通り、ダメなんですよ、私。お客――誰かのために料理をしようとすると、どうしてもこうなっちゃうんです」
口で説明するより、見て貰ったほうが早いと思って提案した入部試験だ。
実際に出来上がった料理を前にして、私はことの次第を説明した。
「昔からこうなんです。自分で好きに作るのは何も問題がないのに、誰かの口に入ると思うと、五感が鈍ってしまって」
「でも、なづなちゃん、調理実習とか問題なくない? 先生も味見するのに」
「あれは、自分の中で高得点の料理を作るためにやってるから。人に食べさせるとか、意識してないし」
そういうもの?
と、すずめちゃんが微妙に納得いってない顔をしているけど、そういうものだから仕方ない。
これは何というか……意識の問題なんだ。
昔からずっと、自分の中に刷り込まれて来たような、僅かな意識。
それが、私の感覚を微妙に狂わせる。
「なので、マネージャー……というか、皆さんの食事を預かるなんて、無理なんです」
今度こそキッパリと、これ以上ない理由を添えて断る。
今の私じゃダメなんだ。
この癖を克服しない限りは、店の厨房にだって立てやしない。
「……そうか、残念だ。無理を言ってすまなかった」
しばらく無言で何かを考えていた先輩は、やがて諦めた笑みを浮かべてそう告げた。
私を気遣う言葉とは裏腹に、諦めの向こう側にわずかに寂しげな顔が覗いて、心がちくりと傷んだ。