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第3話 入部試験 ~親子丼~

 その日の夜。

 大忙しの夕飯ピークタイムを終えたころに、私は思い出したように、厨房へ向かって叫んだ。


「あ、今日の自分で作るから!」


 揚げ油をじっと見つめていたお父さんが、顔だけ振り返って無言で頷く。

 すると、表のレジの方からお母さんもひょっこりと顔を出した。


「今日のまかない、お父さんの特製あら汁だけど。アジフライの頭と中落ちで」

「う……うー、それも食べる! けど!」


 何それ、絶対美味しいやつじゃん。

 でも、久しぶりに腕を確かめておきたいものがある。


「何作るの?」

「えーっと……親子丼」


 表はすっかり落ち着いて、晩酌タイムでながちりの常連客ばかりが残ってきたのを見計らい、私は厨房の一角を間借りする。

 冷蔵庫から鶏もも肉、卵、玉ねぎ、三つ葉を取り出して、エプロンを装着。

 よし、取り掛かろう。


 あの後、剣道部マネージャーの入部テストのお題を話し合ったのだけど、


「何、作りますか?」

「何でもいいぞ。得意料理とかで」

「いえ、むしろリクエストして貰ったほうがだと思うので」


 私の問いに、瀬李先輩は相変わらず半信半疑のまま、少しだけ考える時間を置いて答えた。


 ――じゃあ、親子丼で。


 丼もの王道、親子丼。


 誰でも手軽に美味しく作れるので、家庭料理の中でも定番のラインナップである。

 その一方で、プロが作った親子丼は、まったく別次元の料理にも変貌する。


 具材の切り方、火の通し方、火力の管理、卵とじのふわふわ具合。

 単純な要素を掛け合わせた料理だからこそ、ひとつひとつの技術の習熟が試されるわけだ。


 あの先輩が、それを分かったうえでお題に選んだのだとしたら、侮れないものだけど、果たして――なんて。

 そんなことをぼーっと考えている間に、ほとんど手癖だけで料理は仕上がっていた。


 お椀に盛ったホカホカのご飯に、丼用の小型パンから黄金色のを滑らせるようにして載せる。

 親子丼は、和風あんかけのようであって、あんかけほど全体が緩くなってもいけない。


 火が通ってしっとりふわふわの卵を土台にして、その上にとろーり半熟卵を纏わせるイメージ。

 対して鶏モモの旨味が溶け込んだ出汁は、卵とお肉に艶めかしい潤いと香りを与える高級化粧水か、フレグランスか。

 その上にぱらぱらと、瑞々しい三つ葉の装飾アクセサリーを添えれば――


「完成っと」


 いつ読モに出しても恥ずかしくない、色気たっぷりの親子丼の出来上がり。

 うん、今の私にとっては、なんてことはない料理だ。


 さっそく、厨房の隅に椅子を出して、出来立てを頂く。

 親子丼なら、お箸よりは匙が良いかな。


 ふわりとしたアタマは、匙を突き入れても一切の抵抗がなく、その下で出汁を吸ってほろほろになったお米を一緒に掬い上げて、ひと口。

 優しいくちどけの卵の旨味と、炒めた玉ねぎの甘さ、ぷりぷりとした食感の鶏もも。

 噛めば噛むほど味の染み出るご飯と共に、香ばしい出汁の香りが鼻の奥いっぱいに広がっていく。


「はぁー、うっま」


 溜息と共に、脊髄直結の感想が漏れた。

 おいしい。

 虚栄でも色眼鏡でもない、誠心誠意の真心こもった自画自賛。


 そう言えば、小さい頃に初めて親子丼が上手にできた時は嬉しかったな。

 さっきも言った通り、〝誰でも手軽に美味しく〟がウリのこの料理は、例えば卵に火が通り過ぎて天津飯みたいになっちゃったとしても、味は変わらず食べられる。


 けど、やっぱり目指したいのは、ふわとろセクシーな親子丼で。

 はじめてできた時には、お店が営業中だってのもお構いなしに、家族や、その場にいたお客に自慢して回ったっけ。

 あれは、何歳の時だったかな……もう覚えてないや。


 これを数日後の入部試験で作れば、たぶん余裕で通過してしまうことだろう。

 作れれば――ね。




 入部試験は、放課後の学校で行われることになった。

 調理科であれば申請さえすれば、空き時間に調理室を自由に使うことができる。

 ほとんどは課題や補習、コンクールの準備などの理由が多いらしいが、申請用紙には名目上「部活動」と書き添えた。


「私たちはここで待っていれば良いかな?」

「なづなちゃんの親子丼、楽しみにしてるね!」


 部長は当然としても、なぜすずめちゃんまで?

 この際問題なのは人数ではないので、良いけれど。

 数人分をまとめて作ることができるのも、丼ものが持つポテンシャルのひとつだ。


 沢山並んだ調理台のひとつにふたりを待たせて、私は隣の台に向かう。

 流石に食材は常備されていないので、ついさっきスーパーから買ってきたものを、お気に入りのマイバッグから取り出すと、家同様にエプロンを身に着けて調理を始めた。


 手順は何も変わらない。

 玉ねぎをスライスし、鶏ももは削ぎ切りに。

 一緒に炒めて火を通したら、調味料と出汁を計りながら入れて下味を整える。


 ……ちょっと薄いかな?


 匙で味見をしながら、分量外の調味料で微調整。

 仕入が違えば食材が含む水分量も変わるし、調味料の味の濃さも変わるので、レシピの分量を妄信してはいけない。

 味付けは必ず、自分のと、これでいいと思うを大事にする。


 ……まだちょっと薄いかな。


 何度かの微調整を経て、ようやくこんなもんかと味が整う。

 あとは卵を溶き入れるだけ。


 ここからはタイミングの勝負だ。

 火を入れすぎても、入れなさ過ぎてもだめ。

 特に、入れなさ過ぎて生焼けのものをに出すなんて、もってのほかだ。

 食中毒なんて出した日には、目先の営業停止どころでなく、お店にとって一生モノの傷になる。


 まだ……まだまだ……まだ……………………………………今っ。


 小パンにかぶせていた蓋を取った瞬間、私は自嘲するような笑みを浮かべた。

 やっぱり、こうなっちゃうか。


 でも、これで良い。

 私にマネージャーとして、料理を作らせようという彼女たちの願いを、これ以上ない説得力で断るには、これで――


「できました」


 ふたりの前に、できあがった丼をサーブする。

 期待に胸を膨らませて目を輝かせた彼女たちの顔が、目の前に置かれた料理を見た瞬間に、なんとも言えない顔に曇ったのを、私は諦めながら見届ける。


「これは……」


 出来上がったのは、紛れもなく親子丼だ。

 ただ、先に挙げたような、卵がぐずぐずに固まって、ご飯の上でスクランブルエッグ丼のようになってしまった


 おそらく、半熟とろとろの親子丼をイメージしていたふたりにとっては、これ以上ない裏切りをしてしまったことだろう。


「まあ、味は良いかもしれないからな」


 瀬李先輩が、下手な気遣いを口にしながら、匙を手に取った。

 中身を掬って、艶やかに揺れる唇に運び入れる。

 二、三度の咀嚼。


 はじめは軽快なステップを踏むようだった口の動きが、不意に、奥歯に胡椒でも詰まったかのようにもたついた。


「ええと……何というか……」

「しょっぱいねぇ」


 隣で同じように食していたすずめちゃんも、顔をしかめる。


 私は、小パンに残った汁の残りを、指先で掬って舐めた。

 うわ……しょっぱ。

 塩と砂糖を間違えて作ったみたいにしょっぱい。

 これは、過去イチの失敗かも。


「見ての通り、ダメなんですよ、私。お客――誰かのために料理をしようとすると、どうしてもこうなっちゃうんです」


 口で説明するより、見て貰ったほうが早いと思って提案した入部試験だ。

 実際に出来上がった料理を前にして、私はことの次第を説明した。


「昔からこうなんです。自分で好きに作るのは何も問題がないのに、誰かの口に入ると思うと、五感が鈍ってしまって」

「でも、なづなちゃん、調理実習とか問題なくない? 先生も味見するのに」

「あれは、自分の中で高得点の料理を作るためにやってるから。人に食べさせるとか、意識してないし」


 そういうもの?

 と、すずめちゃんが微妙に納得いってない顔をしているけど、そういうものだから仕方ない。

 これは何というか……意識の問題なんだ。

 昔からずっと、自分の中に刷り込まれて来たような、僅かな意識。

 それが、私の感覚を微妙に狂わせる。


「なので、マネージャー……というか、皆さんの食事を預かるなんて、無理なんです」


 今度こそキッパリと、これ以上ない理由を添えて断る。

 今の私じゃダメなんだ。

 この癖を克服しない限りは、店の厨房にだって立てやしない。


「……そうか、残念だ。無理を言ってすまなかった」


 しばらく無言で何かを考えていた先輩は、やがて諦めた笑みを浮かべてそう告げた。

 私を気遣う言葉とは裏腹に、諦めの向こう側にわずかに寂しげな顔が覗いて、心がちくりと傷んだ。

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