入部試験からしばらく、瀬李先輩が私のもとを訪れることは無かった。
気づけばゴールデンウィークがやってきて、毎日のように実家の手伝いで忙殺されていた。
こんなんでも一応は看板娘なのだから、あくせく働こう。
本当なら厨房に立ちたいけど、例の
調理を学ぶ学校に入ったのだって、半分は
このままじゃ家を継ぐことも、自分の店を持つこともできない。
これで良いはずがない。
そうして、連休が明けたころ――
「なづなさん」
「え゛、瀬李先輩?」
もう終わった話だと思ってすっかり油断していたところに、先輩は再び現れた。
お昼休みの教室で、私はまた奇異の目を向けられる。
大半は、瀬李先輩を眺める女子たちのうっとりした視線だ。
「マネージャーの件、考えてくれた?」
「いえ、ですから、お断りしたと……」
「部に持ち帰って考えてみたけれど、やっぱりなづなさんが良いと思ってね。すずめから人柄も聞いているし、何より責任感がありそうだ」
「ですよねっ!」
向かいの席で、購買のパンに噛り付きながら、すずめちゃんがサムズアップを掲げる。
「でも、料理ができないんじゃ……」
「料理なら、他の部員たちに任せてくれてもいい。それこそ、すずめも手馴れてるんだったな?」
「これでも町中華の娘ですから、えへん」
「マネージャーの仕事には、他にも掃除洗濯や、部員のケアなどもある。なにも、料理だけがすべてじゃない」
「そうかもしれませんけど――」
そこまでのラブコールを貰えるのは、もちろん悪い気はしない。
でも、一番得意なことで力になれないのに、私がマネージャーをやる意味があるのかな。
その気持ちが何よりも先行してしまって、前向きに考える余裕がない。
「また来るよ。お昼を邪魔して悪かったね」
私が返事しあぐねている間に、先輩はそう言って颯爽と去って行ってしまった。
もしかして、迷ってるって思われたかな……?
答えはとっくに出しているつもりなんだけど。
「なづなちゃん……ほんとにやらないの?」
すずめが、捨てられた子犬のような目で見つめてくる。
そ、そんな顔されたって、心変わりはしないんだから。
「ようは、雑用係が欲しいんでしょ? 私じゃなくたっていいじゃん」
「そう言われちゃうとその通りだけど……私は、なづなちゃんが一緒だと嬉しいなあ。寮だから、毎日一緒に生活するんだよ。楽しそうじゃない?」
「え、私も住むの?」
驚きの新事実発見。
「私、家近いし、もしやるとしても、部活終わったら帰るよ?」
「やってくれるの!?」
「そうは言ってない」
「うーん……ウチの部、朝練とかもあるから、通うより住んじゃったほうが早いと思うけどなあ。今のマネージャーさんも、そうしてるし」
住む……となると、なおさら無理かな。
お店の手伝いだってしなくちゃいけないし……私が抜けたら、お父さんとお母さんだけじゃ、ピークタイムを乗り切れないでしょ。
ナシナシ。
やっぱり、部活はナシ。
なのに、そう決めた途端に、胸の奥がまたちくりと疼いた。
後悔……?
なわけがない。
何を後悔するのか、私にはサッパリ分からない。
「なづな、あんたもしかして……便秘?」
「は?」
その夜、モヤモヤしたまま仕事をしていたら、お母さんに心配そうに尋ねられた。
「なんか、ずっと難しい顔してるから。今日のまかない、お父さんに千切りキャベツ出して貰おうか?」
「やめてよ、違うから。メシ屋でそんな話しないで」
「娘の健康状態を心配して何が悪いのよー。だったら、接客中は眉間に皺寄せないの」
「それはごめん」
「何か悩みでもあるの? 学校、うまくいってないとか」
「そういうのではないんだけど……」
秘密にしておくような話でもない……かな。
お店が終わってお母さんが締め作業をしているタイミングで、今日のまかないの焼うどんを食べながら、私はマネージャーのことを打ち明けた。
「剣道? あんた、そんなの興味あったの? 家の階段登るのもひーこら言ってるのに?」
「そこまでひどくないし、マネージャーだから。剣道するわけじゃないから」
「それで、どうするの?」
「断ったよ。部活やったらお店の手伝いできなくなるし。入部テストもしてもらって、無理だって伝えた……ハズなんだけどな」
どうして諦めてくれないんだろう。
普通、あそこまでしたらスッパリ諦めてくれそうなものだけど。
「マネージャーの入部テストって何よ」
「親子丼作った」
何ともなしに答えると、お母さんがレジ締めの手を止めて、驚いた顔でこちらを見た。
「食べさせたの? 誰に?」
「先輩と、クラスメイト」
「でもあんた……アレでしょ?」
「そう、アレ」
お母さんとの間では、私の癖に関しては
だから詳しく語らなくても、先輩たちに失敗料理を食べさせることになったのは伝わっただろう。
「アレを見せつけて、断ったのに。なんでか先輩、諦めてくれなくって」
「イケメンの?」
「そう、イケメンの。あー、もう! モヤモヤするー!」
ムカッ腹を収めるように、目の前の焼うどんにがっつく。
さっきの話がお父さんにも聞こえていたのか、千切りじゃないけどキャベツがいつもよりたっぷり入ってる気がする。
だから、便秘じゃないって言ってんのに。
「そのモヤモヤの理由は、ちゃんと考えたほうが良いかもね」
「なんで? 困ってるのはこっちなのに」
「なんでも。なづなが将来、料理人としてやっていきたいなら、なおさらね」
何なのもう、意味深なこと言ってくれちゃって。
私はゲームは攻略サイトを見ながらやるし、映画も先にあらすじを確認しておいて安心して観たい派なの。
それでもお母さんは答えを教えてくれることはなくって、モヤモヤはさらに加速するばかりだった。
勧誘を諦めてくれないモヤモヤと、料理人としてやっていくことと、いったい何の関係があるって言うのか。
でも、ずっと店を切り盛りしているお母さんにそんなこと言われると、気になって仕方がない。
登校中も、授業中も、実習中も、体育の時も。
気づいたら放課後になっていて、身体中にまったく身に覚えのない痣が大量にできていた。
なんだこれ、普通に痛いし保健室案件だよ。
「それじゃ、なづなちゃん。私、部活行くねー! また明日!」
「うん、明日」
笑顔で教室を飛び出していくすずめちゃんを見送って、 帰り支度を始める。
記憶にないけど、すごく散々な一日だったような気がする。
それもこれも、全部お母さんの言葉と、諦めの悪い先輩のせいで。
あんなに不味い親子丼を食べさせたっていうのに――
「……あっ」
何か今、パチッと来た。
入部試験の日のことを思い出した瞬間、ちくっとして、モヤッっとして、そしてパチッ。
それを言葉にするのには、ちょっとだけ時間が必要で。
たぶんこれがモヤモヤの正体なのかもしれないって、自分なりに腑に落ちるものがあった。
「美味しくない料理……食べさせちゃったんだ」
断るためとはいえ、人に不味い料理を出してしまった。
あんな、悲しそうな顔をうかべた先輩を、何もフォローすることなく見送ってしまった。
そんなの、料理人として間違っている。
美味しいものを食べてもらう努力もしないで、平気でいるなんて。
このモヤモヤは、諦めの悪い瀬李先輩に対してじゃない。
彼女に美味しくない料理を平気で提供してしまった自分が。
お客に「美味しい」って言わせることができなかった自分が。
ただ、許せなかったんだ。