あくる日、私は瀬李先輩と、あと一応すずめちゃんも、放課後の調理室に呼び出した。
「もう一度、入部試験やってくれませんか?」
「それって、マネージャーのこと、考えてくれたってことかな?」
「あ、いえ、そういう意味じゃないんですけど」
言われてみればそうだ。
わざわざ再試験したいなんて、マネージャーやりたいって言ってるようなもんじゃない。
「とにかく、もう一度だけ作らせてください。親子丼。ただし、条件がひとつ!」
これで
「料理中は、部屋の外に出ててください!」
そう言って、私はふたりを調理室の外へと叩き出した。
目の前に居られると、どうしても「食べさせる」という気持ちが先行してしまう。
だからお客の顔がちらつかないような環境で、自分と、料理と、ふたりきりになる。
これだったらいつもと同じ感じで料理ができる……んじゃ、ないかな。
初めての試みだし、自信はない。
でも、これでダメだったら諦めもつくつもりで、私はエプロンを身に着けた。
材料は変わらない。
鶏もも肉に、玉ねぎ、卵、そして三つ葉。
ごはんも、ふたりが来る前に浸水まで済ませておいたものを炊きたてで使う。
食材を前に、小さく深呼吸をする。
大丈夫。いける。
今の私の使命は、この子たちを美味しく料理すること。
……この間、失敗するって分かってて料理された子たちは、ごめん。
今日こそ、若くてフレッシュな卵たちを、うっとりセクシーな大人の親子丼に変えてあげるからね。
まずは鶏もも肉。
削ぎ切りにすることで、味が染み込みやすくする。
それをジップロックに入れて、水、塩、砂糖の混合液で浸して十五分ほど放置。
こうするとスーパーのお肉でもプリッと美味しく仕上がるって、お父さんに教わった。
ほんとは一晩ぐらい置いたほうがいいけど、そこも削ぎ切りにすることで短時間でも十分馴染む。
玉ねぎは、細めの串切りに。
親子丼に玉ねぎは必須――だけど、鶏肉よりは主張していてほしくない。
例えるなら「カワイイあの子に、こんな一面もあったの?」って思わせるように。
気づかないけど、確かに居る。それがベストサイズ。
もも肉がいい感じになってきたら、清潔なキッチンペーパーで表面の水分だけ取って、小パンに投入。
もも肉は皮の方からじっくりと火を通す。
片面が焼けたらひっくり返して、玉ねぎを投入。
カレーを作る時の感覚で、ついつい玉ねぎを先に炒めてしまいそうになるけど、親子丼なら後から炒めた方が程よい食感が残ってくれる。
染みだした鶏の油で玉ねぎを炒める感じ。
鼻先を香ばしい香りがかすめて、これだけで塩コショウで食べたいくらいだ。
程よく火が通ったら、出汁と醤油、みりん、砂糖を混ぜたつゆを入れて煮立たせる。
この煮込み時間もあるから、炒める時には最後まで火を入れすぎない。
味は……うん、バッチリ。
最後の仕上げに入ろう。
卵をボウルに割入れてとく。
コツは、白身を切るようにとくこと。
黄身は「その途中でつぶれちゃった」くらいでいい。
ざっと見て、黄身と白身がまだらに見えるのがベストな状態だ。
これを、煮たてた小パンにまず半分ほど注ぐ。
混ざり切ってない白身がどろんと落ちていくと思うけど、それでいい。
注いだ卵は、決して混ぜない、とかない、触らない。
これ、卵とじ三原則ね。
ふつふつと固まって半熟くらいになったら、残りの卵液を投入。
蓋をして待つ。
ここからはタイミング勝負だ。
頭に思い描く、うっとりセクシーな親子丼。
つやつやの卵が湖面に浮かぶ月のように輝いて、立ち上る甘い匂いに誘われる、傾国の美女。
その姿を夢見て――今っ!
意を決して蓋を開く。
湯気の向こうに、桃源郷あらば――
調理室の扉を開けると、外の廊下で瀬李先輩とすずめちゃんが楽しそうに談笑をしていた。
気配に気づいて、ふたりの視線がこちらに向く。
「お待たせしました」
「自信がありそうだな?」
「え?」
「強敵に挑む前の剣士のような顔をしている」
それって、どんな顔?
思わず頬に手を当ててしまうけど、鏡も無ければどんな顔をしているかなんて分からない。
なんか……ちょっと恥ずかしいな。
とにもかくにも、ふたりを調理室の中へと誘う。
「というわけで……どうぞ」
「おお」
「わあっ」
出来上がった丼を前にして、ふたりが目を輝かせた。
お椀の中で、美しい黄金色の親子丼が笑っている。
ボロボロの天津飯みたいな親子丼もどきの前回とは違う、美しく、完璧な親子丼。
「食べても?」
「もちろん、冷める前にどうぞ」
頷き返しながら、妙に胸がドキドキする。
匙で掬った親子丼が、先輩たちの口に運ばれていくのを、子供の発表会を見守る親の気分で見届ける。
子供いたこと無いけど、なんか、すごく、そういう気分だ。
「美味しい」
咀嚼した料理を飲み込んだ先輩が、こちらを振り向いて笑った。
瞬間、喉の奥からじんわり温かいものが胸に落ちていく。
「本当に美味しいよ。この間のがウソみたいだ」
「いや、それは……あはは」
「なづなちゃん、美味しい! おかわり!」
「え、すずめちゃん、もう食べたの? てか、おかわりの用意なんてないし」
「えー、じゃあもう一個作って!」
「そしたらまた、外に出ててもらわなきゃいけないけど」
すずめちゃんと漫才みたいなやり取りをしている横で、瀬李先輩も美味しそうに料理を食べ進めていた。
まっすぐに伸びた背は天井から糸で吊られているようで、お椀を持つ手も、匙を口元に運ぶ一連の動きも、よどみがない。
まるで精巧な仏像か何かのようで、この人、すごく食べ方が綺麗だな。
見とれていたら、視線に気づいた彼女の目があった。
思わず、こちらから目を反らしてしまう。
「うん。これなら申し分ないだろう。なづなさん」
「は……ひゃい?」
「マネージャーの件、改めて考えてくれないかな」
声が裏返ってしまった私に、先輩は何事も無かったかのようにそう告げた。
「これで首を縦に振ってくれないなら、もう諦めるよ。いろいろ、迷惑をかけてすまなかった」
「迷惑なんてことは。それに、根本的な問題は何も解決していなくって……今日だって、ふたりに外に出ててもらったから、意識しないでできたって言うか」
「なら、いっそのこと他の部員たちは料理に関して一切口を出さないし、手も出さない。それならどうだろう?」
「そんなこと……」
できるの?
なんて思ったけど、瀬李先輩の表情は真剣そのもので。
この人がそう言うなら、ほんとにそうできてしまいそうな説得力がある。
「あの……ひとつだけ、いいですか?」
「何かな?」
「なんでそんなに、私に目をかけてくれるんですか? すずめちゃんの紹介っていうのは抜きにして」
私の問いに、彼女は初めて目を泳がせるように視線を外した。
それから何かを思い出すように、ちょっとだけ笑って、ぽつりと言葉をこぼす。
「昔、家族で通っていたお店で食べた親子丼が美味しくて。これが、その味に似ていたから……かな」
「それ、私の答えになってないですけど……?」
「いや、私にとっては十分な答えだよ」
先輩が笑った。
いつも浮かべている爽やかで自信にあふれた笑顔じゃなくって、年相応の子供のような、温かい笑顔だった。
――みてみて! 親子丼、上手にできたの!
――おおー、すごいな、なづなちゃん。もう家のお手伝いできるな。
――大将と俺らの老後も、安泰だなぁ。
――うん! お父さんみたいに美味しい料理作って、お客さんに喜んでもらうの!
――ね、食べて! 感想聞かせて?
――え……いいの?
――いいから、ほら! ね、美味しい!?
――う、うん。すっごく美味しい。本当に。
――だよね!? 私もそう思う!
先輩の笑顔を見ていたら、ふと、初めて綺麗な親子丼を作れた日の記憶が、頭の中を駆け巡った。
この間は、思い出そうとしても思い出せなかったのに、記憶の引き出しを掘り起こしたか、ひっくり返したみたいに、ぶわっと。
あの時は、本当に嬉しかったんだ。
美味しく料理できたことも、美味しいって食べて貰えたことも。
あの子の笑顔も――って、あれ、誰だっけ?
そういえば、小さい頃によく家族で来てた女……の子?
あれ、男の子だっけ?
とにかく、年の近い子が居たな。
名前も知らないけど、よく私の練習料理食べてくれた、笑顔が素敵な子。
「あの、瀬李先輩」
懐かしい気持ちを胸に、私は改めて先輩に向き合う。
「マネージャーの件……寮とか、私の一存じゃ決められないところもあるから、その、すぐに答えは出せないですけど。考えさせて貰ってもいいですか?」
「え!? なづなちゃん、それって――」
今日、ふたりに料理を食べて貰えて、美味しいって言ってくれて、本当に嬉しかった。
それが、私の初心でもあって、将来料理人になりたいなら乗り越えなきゃいけないこと。
「うん……やってみたいなって。みんなに料理、作ってみたい」
瀬李先輩は、驚きよりは喜びと興奮が弾けそうな様子で、それを理性でクールに抑えて、優しく微笑んでくれた。
「待ってるよ、なづなさん」
「はい」
これだけ目を掛けてくれた先輩と、すずめちゃんと一緒の場所でなら、何かきっかけが見つかりそうな気がしたんだ。
寮――合宿所で、部員たちのために料理を作るっていうのも、将来お店をやる時のいい練習になる気がしたし。
何より、私の料理を食べて貰いたい。
それが私の根っこのところにある、いちばんの願いなんだ。