翌日。
いつも通りに夕食が終わって、私は炊事場の後始末に勤しんでいた。
「んじゃ、洗い物終わったから引っ込むわ」
「今日もごっそさーん」
「ありがとうございました!」
今日の洗い物当番だった先輩たちが去っていくのを見届けて、最後に部屋の中をもうひと周り確認する。
うん、綺麗だ。
調理場は、毎日綺麗にしておかないとどうも落ち着かない。
対して自分の部屋は、気付くと足の踏み場を探すことになってしまうんだけれど。
戸締りを確認して、電気を消す。
建付けの悪い入り口の扉をガタガタと閉めていると、ふと廊下の向こうから光が漏れているのに気付いた。
これが客室側なら、トイレか何かかなと思うところだけど、向こうにあるのはリビング――民宿時代にフロントロビーになっていたところだ。
この時間に明かりだなんて、なんだろう?
今夜は、みんなでテレビを囲むような映画もスポーツもやってないはずだけど。
万が一、電気の消し忘れかもしれないし、念のため確認してみることにした。
光は、フロントの向こう側――民宿時代なら事務所があったであろう場所から漏れていた。
合宿所となった現在も寮運営のための書類や、その他資料などが収められた事務所になっているが、もう半分は日用品の倉庫としても使われている。
誰か、ナプキンでも取りに来たかな?
人が居るかどうかだけ確認しようと近づくと、かすかに話し声が聞こえてくる。
扉に開いた小窓ごしに中の様子を伺ってみると、事務所のデスクチェアに腰掛ける赤江先生と、傍に立って会話をする瀬李部長の姿が目に入った。
何の話をしているんだろう?
そもそも、この時間に先生が寮にいるのが珍しい。
朝は、部員たちの体調管理も兼ねて一緒に食事を摂る赤江先生だが、夜はこの間のような全体合宿でもなければ、隣にあるご実家に引っ込んでいることが多いのに。
あちらも視界に入っていたのか、すぐに小窓から覗く私の姿に気づいて「あっ」と声を上げるのが口の形で分かった。
なぜか、悪いことをしてしまった気分になって、ドキリとする。
このまま退散しても良かったが、部長は先生と短く会話のやり取りをすると、私に向かって手招きをした。
流石に呼ばれて立ち去ることもできず、私はおずおずと扉を開けて、中へと足を踏み入れた。
「どうしましたか? 何か、探し物ですか?」
赤江先生が、にこやかに出迎えてくれた。
どうやら、私が日用品を取りに来たように思われてしまったらしい。
「その、明かりがついてたので誰かの消し忘れかなと思って、見に来ただけでして」
「ああ、そうでしたか。気を遣わせてしまいましたね」
「勘違いだったみたいです。それじゃあ、これで――」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
今度こそ立ち去ろうとしたところを、瀬李部長に呼び止められた。
「何か?」
「うーん……いや、なづなに聞いても仕方ないことかもしれないが、念のためな」
「はい?」
なにやら歯切れの悪い様子。
隣で、先生も困ったように肩を落としているし。
「なづなは、
「いえ、それほどには」
「なら、人伝いでも良いんだが、最近悩みか何か抱えてる……なんて話を耳にしたことは無いか?」
「大仏先輩がですか? うーん、聞いたことがないですね」
普段からあまり話さないし、一年生たちの間でもさほど話題になることもない。
なんなら昨日、お風呂で言葉を交わしたのが、入部以来はじめて個人的に会話した瞬間と言ってもいいくらいだった。
「大仏先輩が、どうかしたんですか?」
「実は今、先生と新人戦のオーダーについて意見交換をしていて」
部長が視線を送ると、赤江先生が頷き返す。
「大仏は、現役生の中では上位の実力者だ。そうだな……調子が良ければ、私や白蓮を凌ぐこともあるくらいなんだが」
「そうなんですね。でも、調子が良ければって言うのは?」
「波がある子なんですよ。精神的なものなのか、体調的なものなのかはハッキリとしていませんが」
先生の補足を受けて、またお風呂の件を思い出す。
確かに、マイペースというか、独特の空気を持った人だ。
「そんな彼女が、新年度に入ってからこっち、著しく調子が悪い。特に、部内勝ち抜き戦――代替わりした後の一回目は、まだどうにか実力の片鱗を見せていたが、この間の夏合宿ではついにトップファイブから外れる始末だ」
「それは、波が悪い時だから?」
「だとしても悪すぎる。調子が乗らないと言っても、元の実力からちょっと下がる程度の話で、五本の指から落っこちるほどでは」
「なるほど」
新年度に入ってからという話なら、私はそもそも
少なくとも、たった今、部長たちから「実力者なのだ」という話を聞かされるまでは、あまりぱっとしない印象の選手ではあった。
「個別のヒヤリングも行ってみたのですが、『特に問題ありません』の一点張りでして」
「とはいえ、この結果で問題が
「その点で言えば、相談ごとを引き出せない関係しか築けていない、顧問としての私の落ち度です」
「それは、部長としての私も同じです。もともと、大仏自身が、あまり自己主張をするタイプではないのもありますが」
「すみません……そういう話なら、なおさら私は、特に情報がありません」
「無理を言ってすまなかった。ありがとう。しかしそうなると、オーダーをどうしようか」
「不確定な可能性にチームの命運を任せるわけにもいきません。大仏さんの調子が戻らないようなら、今のベストメンバーで新人戦に臨むしかありません」
「そうなってしまいますね」
言葉での結論は出たというのに、ふたりとも心のどこかでは煮え切らない様子が手に取るように分かった。
そりゃ、条件付きとは言え、トップふたりに匹敵する実力の持ち主なんだ。
できることなら、試合で活躍してもらいたいに違いない。
「よかったら私、少し情報を集めてみましょうか?」
自分でもびっくりするくらい素直に、そんな言葉が零れ落ちた。
瀬李部長が、心底驚いた様子で目を丸くする。
「あの、大仏先輩って……
先生の手前、なんとなくぼかしてしまったけど、大仏先輩はアッチ側――すなわち、九条派の人間だ。
本人はふわっとしていてどっちつかずのようだけど、何かと九条派の面々と一緒にいるというか、目を掛けられているのを見かける。
部長は、私の言葉を聞いて少しばかり俯いて考え込んだ。
「白蓮にも事情は尋ねてみたが、『自分に言えることは無いから、本人に聞いてくれ』の一点張りだった。かといって本人に直接当たっても、結果は先生と同じ。我々
「山辺さんは、何かアテがあるのですか?」
「そういうわけでは無いんですが……部員のケアも、マネージャーの仕事かなって、ふと思ったところで」
後付けの理由だが、言葉に偽りはない。
ポロっとこぼれ落ちたような提案だったけど、何か自分にできることがあるならというのは、嘘偽りのない本心だ。
「なづなには、ただでさえ食事の準備をひとりで任せてしまっている。そのうえ、ということになるが、大丈夫か?」
「その点なら、心配いりません。料理は、私にとっては
この機会にもう少し、選手でない私も、この部の戦力になれるんだって自覚と証が欲しい。
「どこまでできるか分かりませんが、やってみます」
「分かった。よろしく頼む」
「よろしくお願いします、山辺さん」
「はい。何か分かったら、すぐに知らせます」
瀬李部長はようやく険しい顔を解いて、ちょっとだけ笑ってくれた。
赤江先生も、納得した様子で頷く。
新人戦まで、そう時間はない。
さっそく、手を付けられるところから情報収集を始めないとだね。