寮生たちが稽古のため道場へ出払うと、寮の中は一気に静かになった。
普段なら私もドリンクピッチャーを担いで一緒に向かうところだけど、今日は
単に体調不良の人がいるくらいじゃ、わざわざ看病なんてしないところだけど、原因が原因なので念のため。
とはいえ、特にやることがない。
昼食の準備をするにもまだ早すぎるし。
晩御飯を少し手の込んだものにして、仕込みでもする?
……いや、こういう時に普段はできない掃除をしよう。
バケツに水を張って、重曹とクエン酸。
これでコンロ回りと水回りを徹底的に綺麗にする。
コンロ回りの油汚れは酸性だから、アルカリ性の重曹で。
シンク周りの水垢はたいていアルカリ性の石鹸垢だから、酸性のクエン酸で。
使う道具は適材適所。
ジャンケンみたいに相性があるものだ。
しばらくキッチン周りの汚れと格闘していると、水回りの窓から「にゃー」と鳴き声が聞こえた。
「また来てる。今日はずいぶんと早いな」
私の気配を察知したのか、それとも「水の音=料理の音」とでも勘違いしたのか。
勝手口にいつもの三毛猫がやってきていた。
「今は掃除中だから、ほんとに食べられるものなんてないよ?」
人間の言葉を理解できるわけもなく、三毛猫は私を見上げてみゃーみゃーと強請るように鳴き続ける。
そこまで欲しがるなんて……もしかして、飼い主から十分に餌を貰ってないのかな?
そう考えたら何とも不憫に思えて、仕方なく戸棚から煮干しの袋を持ってくる。
人間であろうと動物であろうと、お腹を空かせた子を放っておくわけにもいかない。
「ほーら、お食べ。頭は残していいよー」
煮干しを二本ほど放ってやると、三毛は前足で器用にキャッチして、そのままガツガツと食べ始める。
うーん、相変わらず食べっぷりはいい。
「それ……なづなちゃんの猫?」
「わっ!?」
突然、後ろから声をかけられて、心臓が飛び出るかと思った。
振り返ると、大仏先輩がすぐ真後ろに立っていた。
「い、いつの間に?」
「つい、今。喉が渇いたから、何か無いかなって」
「気づかなかった……」
足音もしてない気がする。
普通に心臓に悪い。
「たまに来るんですよ。ご飯時になると残飯を強請りに」
「へぇ……可愛いね」
大仏先輩は、私の肩口ごしに覗き込むようにして、煮干しを齧る猫を見下ろす。
「触ってもいいのかな」
「警戒心が強いみたいで、逃げちゃいますよ」
「そうなんだ」
口では理解したように答えながら、先輩は三毛に歩み寄って、すぐ近くにしゃがみ込む。
それからゆっくり手を伸ばすと、煮干しに夢中なその頭を、指先でひっかくように撫でた。
「ほーれほれ……ほーれほれ」
「え、触れてる」
なぜだ。
私は、脱兎のごとく逃げられるのに。
「ふふ……美味しい?」
「みゃー」
「返事してる……」
私には「飯をよこせ」と言わんばかりにしか鳴かないのに。
「実家で、猫を飼っていたの。物心ついた時くらいから一緒にいる、姉妹みたいに育った子」
「物心ついた時からって……もう、だいぶお婆ちゃんですね?」
「うん。死んじゃった」
「……あ。ごめんなさい」
「いいよ」
何の気なしに口にした言葉だったけど、居た堪れなく、申し訳ない気持ちになる。
「私が、こっちに来てすぐだった。私が家を出ていくのを見計らったみたいに……すごく、悲しかった。最期にひと目会うこともできなくって」
先輩は、思い出をなぞるように優しい声で語る。
「よく私のお布団に潜り込んできて、一緒に寝たの。だから、夜になるとそのことを思い出しちゃって……こういうのも、ホームシックって言うのかな。お布団の中で、涙が止まらなくなっちゃって」
「それは……仕方ないと思います。家族みたいな存在が居なくなったら」
「そうしたら……部屋が同じだった先輩が、慰めてくれたんだ。泣き止んで眠るまで、子供をあやすみたいに頭を撫でてくれて。それで私、どうにか立ち直ることができたの」
「いい先輩ですね」
「うん……私、普段からこんなんだから、学校にも部活にもあんまり馴染めなくて。先輩が、いっぱい気にかけてくれて、どうにかやってこれた。でも……彼女ももう、卒業しちゃった」
「あ……」
なんとなく、自分の頭の中でカチッとはまるものがあった。
今年度に入ってから、大仏先輩の調子が悪くなった……ワケ。
「連絡とったりとかしないんですか……?」
「ううん……だって、用事がないし。用事がないのに連絡しても、迷惑なだけだし。話、続かないと思うし」
「そんなこと無いと思いますけど……」
しかし、言われてみれば自分も、昔お世話になった先輩とか、全然連絡とってないな。
用事がないと言えばその通りで――
「……あっ」
先輩の声に釣られて顔を上げる。
視界の端に、走り去っていく三毛のお尻が見えたかと思えば、名残惜しそうにいつまでもその姿を追う先輩の横顔が目に入った。
「今の話、どうして聞かせてくれたんですか?」
「え……なんでだろ」
先輩が、振り返って首をかしげる。
「おうどん……かな?」
「うどん? 朝の?」
「先輩と一緒に、よく食べたの。夜中にちょっと小腹が空いて……でも、一個まるまる食べると太らないか心配だからって、カップのうどんをふたりで分けて。それを……思い出したのかもしれないね」
今朝、先輩と分けて食べた鍋焼きうどん。
私にとっては単なる看病の一環だったけど、先輩にとっては思い出の引き出しを開ける鍵だったのかもしれない。
「その先輩のこと、好き、だったんですね」
私の言葉に、返事が返ってくることはなかった。
だけど、バツが悪そうに俯いて、ほんのり頬を染める先輩の表情に、それ以上の答えなんて必要なかった。
「あと……もう一個」
「え?」
「なづなちゃんのシャンプー……先輩と同じの使ってる。匂いがすごく似てるから」
「そう、なんですね。私、ちょっとクセがあるから、自分に合うジャンプ―じゃないと、朝から髪がまとまらなくって」
「先輩も、同じこと言ってた……ふふ。ねえ、ちょっと匂い、嗅いでいい?」
「えー、いいですけど……」
先輩が、ひたひたと歩み寄って私の後ろに回る。
いい、とは言ったけど、改めて匂いを嗅がれるとなると……ちょっと恥ずかしいな。
シャンプーしたてでもなければ、ひと晩寝てちょっと汗もかいてるところだし。
そんな私の気持ちお構いなしに、先輩は肩に手を添えて、首筋にそっと顔を寄せる。
それからスンスンと、猫が匂いを嗅ぐように鼻を鳴らした。
「……うん、やっぱり同じ」
「ほかの寮生にも、同じシャンプー使ってる人いますよ。前に、その話題でひと盛り上がりしたことありますし」
「そうなんだ……でも、なづなちゃん以外、気付かなかった」
私の言葉なんて話半分に、先輩は髪の匂いを嗅ぎ続けた。
なんだろうこの、恥ずかしいでもなく、こそばゆいでもなく、かといって嫌でも煩わしいでもない、微妙な感覚は。
吸われてる時の猫って、こんな気持ちなのかな……なんて思いながら、思い出に浸っているであろう先輩を邪魔する気にもなれず、しばらく良いようにされていた。
「ありがとう……少し、元気出たかも」
「あはは、こんなんで良ければいつでも」
「そう? じゃあ、またお願いしようかな」
「え」
はにかんで去っていく先輩を見送りながら、私は、ややぎこちない笑みを浮かべていた。
もしかして、安請け合いしちゃったかな。
まあ、減るもんじゃないけど……というか先輩、飲み物取りに来たの忘れてる。
仕方なく、コップに麦茶を注いで後を追うことになるのだった。