平日の昼下がりに、私は、退屈な欠伸を噛み殺していた。
飽きるほど見慣れたはずなのに、今は懐かしさを感じる、実家の定食屋のカウンターは、昼食のピークを過ぎてのんびりした午後の陽気に包まれていた。
「ピーク終わったあとのウチって、こんなに暇だったっけ?」
「平日なんてこんなもんでしょう。それよりあんた、宿題とかないの?」
「まかない作るついでに終わるから大丈夫~」
お母さんのお小言を聞き流して、カウンターにつっぷしながら思う存分に昼下がりの怠惰を満喫する。
テレビから流れるお昼のワイドショーは、人生で指折り数えるくらいしか見たこと無いのに、いつでも既視感のあるニュースを流してる。
地球が何週回って時代が変わっても、お茶の間が求めるゴシップに変わりはないってことなんだろう。
そんなご時世に高校の方はというと、一学期が終わって数日間の
剣道部寮の方も、この期間はお盆休みの時と同じく、基本的には締め切られている。
一部、数日の里帰りが面倒だからと残っている寮生も居るが、基本的には自分たちで家事も食事も面倒を見ることになっている。
そんなわけで、私もマネージャーの任を解かれて数日間の小休止というわけだ。
「寮で毎日みんなのご飯作ってるんでしょ? ちょっとは成長した?」
「さーねー、どうだろう。やってることはいつも変わらないしねー」
実際、どうなんだろう。
マネージャーになって四か月。
マネージャー長として、寮の食事を任されて三か月。
めまぐるしく、あっという間に過ぎ去った一学期だったな。
自分なりに、精いっぱいやって来たつもりだったけど、
成長かぁ……成長ってなんだろ?
「すみません」
「ふぁ、いらっしゃいませ……えぇ!?」
入口の扉が開いて、私は怠惰な心を接客モードに引き戻す。
寝ぼけ眼で振り返ったかと思えば、そのままの格好で固まってしまった。
「何してんの。早くお席に案内して」
急かすお母さんを余所に、頭の中は一気にクリアになって――というか、一瞬で血の気が引いて、何をどうしたもんだか混乱してしまう。
だって、ここは寮じゃない実家のお店で。
要するに私の家で。
そこに――瀬李部長がいるなんて。
「もしかして、ランチはもう終わったか?」
「いえいえいえ! ウチは夜まで通し営業なので! こっちにどうぞ~」
申し訳なさそうな顔で帰ろうとした部長を、慌てて呼び止めてカウンターに案内する。
慌てて案内したせいか、つい今しがたまで自分が座ってた席に通してしまった。
やば、「え、なんか生暖かいんだけど……キモ」とか思われないかな。
思われたら死にたい。病む。リアルに。
「えーっと、それでメニューがですね」
「今日の日替わりは?」
「え? あ、はい、えーっと煮魚定食です」
「じゃあ、それで」
「分かりました。日替わりひとつでーす!」
厨房に声をかけると、お父さんが無言で頷き返してくれる。
入れ替わりで、お母さんがお茶を持ってきた。
「はい、どうぞ。なに、なづなの学校のお友達?」
「お友達というか、部活の先輩」
「ああ、剣道部の。それはどうも、いつもなづながお世話になっております」
「いえ、こちらこそ。なづなさんには、いつもお世話になっています」
「ちょ、やめてよ。なんか恥ずかしい」
この年になると、こういうベタなやり取りひとつが妙にこそばゆい。
ペコペコ頭を下げ合うふたりの間に無理やり入り込んで、お母さんをお父さんのヘルプで厨房に押し込む。
今度は、店先に私と部長とふたりきりになってしまって、それはそれでまた微妙に気まずい空気が流れた。
ワイドショーの興味ないトピックが、今は耳に心地いい。
「あの、部長はどうしてこっちに? 実家に帰ってましたよね?」
「うん? ああ、せっかくの休みだから来てみたんだ。ちゃんとお客として」
「そんな、わざわざありがとうございます」
なんだろう、めっちゃ嬉しい。
にやけちゃいそうだから必死に抑えてるけど。
ただ、お店じゃまだ、私はお客に料理を出すことが認められてない。
だから、料理を振る舞うのはお父さんなんだけどね。
「よく、ウチがここだってわかりましたね?」
「まあ、土地勘が無いわけではないしな」
「一年も過ごせば、街のことも覚えますか」
「それもある。寮のおかげで、だいぶ助かってるよ」
「この辺、ちょっと道が入り組んでますからね」
いわゆる田舎の商店街じゃ、一本間違えるだけで全然違う方向に道が繋がったりしてややこしい。
先輩も先輩で、来るなら来るって言ってくれたらいいのに……って、そういえば連絡先とか交換してないかも。
剣道部のグループチャットはあるけれど、毎日いるからってそういうところすっかり抜け落ちちゃってたな。
「はーい、日替わりです」
「ありがとうございます」
とか話している間に、お母さんが料理を運んできた。
本日の日替わり定食は、煮魚と小鉢セットだ。
煮魚の魚は、マガレイ。
お父さんの地元ではクチボソと呼んでいる、比較的小型のカレイだ。
カレイの煮つけと言えば、ぶつ切りのものが定番だけれど、マガレイは一匹まるまるを姿煮にする。
大型のカレイに比べて、身が小さい代わりに味がぎゅっと詰まっているのが特徴だ。
寝相が悪い子供にお布団をかぶせてあげるように、煮汁を何度も丁寧にかけて煮込んだ自慢の逸品に仕上げるのが、流石のお父さんの腕とも言える。
「プロの煮つけは全然違うな。しっかり煮詰まっているのに身はふわふわで、ショウガの利いた煮汁と絡めるとご飯が進む」
「あ、ちなみにご飯はお代わり自由ですから」
「そうか、なら遠慮なく」
ご飯の配分を計算していたのか、いつもに比べたらちまちまと突いていた部長のお箸が、つやつやの白米をたっぷりと掬い上げる。
うん、いつもの寮の感じだ。
こうやって、もりもり沢山食べてくれる人たちの姿を見られるのは、料理人として嬉しいし、マネージャーになって良かったなと思うことのひとつだ。
「小鉢のほうれん草の胡麻和えに、ひじき煮も素晴らしい。主役の煮つけを押しのけない、慎ましい味付けだけど、それぞれがしっかりと白米のおかずとして成り立ってる。箸休めじゃない、十分一戦級の小鉢。そう、こんな味だったな。懐かしい」
「気に入っていただけたみたいで嬉しいです……って、懐かしい?」
妙な引っかかりを覚えて、思わず問い返す。
すると、横でお昼のレジ閉めをしていたお母さんが、「あっ」と思い出したように声をあげた。
「もしかして西川さん家の瀬李ちゃん!? わ~、こんなによく
「覚えてるものなんですね? 流石にもう、分からないものかと。お久しぶりです」
「ううん、言われなかったら分からなかったわ。だって、こんなちっちゃかったじゃない」
そう言って、お母さんが自分の腰辺りで頭を撫でるようなしぐさをする。
部長は、苦笑しながら改めてお母さんに向かって頭を下げる。
「その節は、大変ご迷惑をおかけしました」
「ううん、こちらこそ。ごめんなさいね。いや~、元気そうで良かった」
「おかげさまで。それも兼ねて、伺ったのもあったのですが」
何やら、ふたりの間で昔話に花が咲いているけど、間に挟まれた私は、全くピンとこなくてさっきから頭の上に「?」が飛び交い続けている。
戸惑う私に、お母さんは呆れた顔で問う。
「あんた、自分とこの先輩だってのに覚えてないの? というか、あんたが一番ご迷惑をおかけしたんじゃないの」
「私が、ご迷惑……?」
「いや、そんな――」
お母さんの言葉に、朧げで散漫的だった記憶が、途端に繋がり始める。
小さいころ、よく家族連れでお店に来てくれていた、同い年くらいの子。
私の親子丼を、嬉しそうに喜んで食べてくれた子。
それからも、何度か私の練習料理を食べてくれて、それから――
「……うっ」
不意に、強烈な吐き気が襲ってきて、私は慌ててバックヤードに引っ込む。
一瞬、驚いたような先輩の横顔が視界の端に見えた気がしたけど、遠慮している余裕なんてなかった。
思い出した。
ううん、なんで忘れてたんだろう。
断片的には覚えていたのに、ピースがひとつの
いや、繋げようとしていなかっただけなのかもしれない。
何のため?
お店を守るため?
自分を守るため?
それとも――
芋づる式で引きずり出されたのは、うす暗い店内で、神妙な顔で語り合う両親の姿。
隣で泣きじゃくりながら見ていた私を、ふたりが優しくあやしてくれたけど、それでも罪悪感は消えなくて。
それ以来私は、
事実だけはずっと、身体に染みついていて拭えない。
だから無意識に、忘れることで前に進もうとしていたのかもしれない。
忘れようとしていたのが、身近な人との思い出――いや、忌むべき記憶だったことも、気付かないほどに。