「マネージャー」
「……」
「マネージャー!」
「あっ、はい!」
食堂の壁際で、私は思わず飛び上がる。
ぼーっとしていた意識が覚醒すると、鈴奈先輩が高く上げた手で手招きしていた。
「何か、今日の味付け薄くない?」
「あ……すみません。足りない人は、お醤油かけてください」
「田舎の味付けが、そもそも濃いんだよ。舌が繊細なウチらは、このくらいがちょうどいいわ」
「アンタだって、大して変わんない田舎の生まれでしょうが」
「流石にこっちほどじゃねぇわ。ボクの夏休みの三十二日目以降も漫喫中~」
「なにおぅ!」
「鈴奈」
「安芸も止めとき」
鈴奈先輩と安芸先輩がいがみ始めたのを、部長副部長が同時に諫めた。
私はと言えば、そんなのすっかり上の空で、大きなため息をひとつ虚空に吐き捨てる。
あの日、あの後、どうにか愛想笑いを浮かべて、私は、瀬李部長が帰っていくまでを見届けた。
そうできたのは、今や十年以上――はじめはお遊びのお手伝いから、今では歴とした従業員として――にわたる、業務経験の賜物と言えるだろう。
他のお客と変わらないホスピタリティで、「ありがとうございました」と敷居を跨いでいく背中を見送るところまでをやり遂げた。
それからすぐ、短い秋休みが終わって、これまでの寮生活が帰ってくる。
戻って来た。
全部、元通り。
「なづなちゃん、大丈夫?」
声をかけられるまで、また意識が飛んでいた。
振り返ると、すずめちゃんが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
今日は、すずめちゃんが跡片付けの当番だっけ。
というか、いつの間に晩御飯の時間、終わったっけ。
「ごめん。ちょっと、調子悪くって」
「えー。それじゃ、無理しちゃダメだよ。あとはできるから、もう部屋にもどって休んでて!」
「ううん、そこまでじゃないから大丈夫。いつものやつだから」
「そう? お大事にね」
笑顔で返すと、すずめちゃんもそれ以上突っ込んでくることは無かった。
「なづなちゃん、体調悪いの?」
ところが、もうひとりの片づけ当番――一年の
「それで今日は、味付けがちょっと変だったんだ?」
「ああ、ごめんね。お醤油大匙何杯入れたか、途中で忘れちゃったみたい」
「うーん、そんなときにお願いごとするのも申し訳ないかな」
「うん?」
バツが悪そうに頬をかく亜利沙さんに、私は話の要領を得られずに首をかしげる。
すると、炊事場の入り口で、すりガラス越しに人影が見えた。
「あのう」
やがて、ガタガタ建付けの悪い扉を開いて、寮生がふたり顔を出す。
どちらも亜利沙さんやすずめちゃんと同じ、剣道部の一年生たちだ。
彼女たちの来訪を皮切りに、亜利沙さんは突然手を合わせて、頭を下げて私のことを拝み倒した。
「なづなちゃんにお願いがあるんだけどっ!」
「ええ……?」
とりあえず後片付けを終わらせてから、亜利沙さんたち一年生三人が私とすずめちゃんの前に並ぶ。
ひとりは伊達亜利沙さん。福島県出身のサバサバした性格の子。
もうひとりは、
最後に
「ええと……それでお願いって言うのは?」
「二週間後のスポーツの日の前に、必勝祈願の特製メニューを作って貰えないかと!」
私の問いに、亜利沙さんが食い気味に迫る。
スポーツの日って、えっと、確か――
「錬成大会だっけ」
「そう、それ!」
正解っ、と言わんばかりに亜利沙さんの指がビシリと私を指す。
「今度の錬成大会は、新人戦と違って各校の出場チーム数に制限がない、交流大会なワケ。もちろん東北とか全国とか、上位大会もなくって」
「はあ」
「それで、沢産剣道部はABCDEチームまで出る感じでー。すごいよね。五チームも作れる女子剣道部、そうそうないよ」
晴海さんが、五本指を立てた手のひらをびしっと差し出す。
「それで、私たちも部の名前を背負って、初めて公式戦に臨むんだけど……」
「そうなんだ。おめでとう……で良いんだよね?」
遠慮がちに補足する星来さんに笑顔で返すと、彼女はひきつった顔で私のジャージの袖に縋った。
「だからこそ、お願いなんだよぉ!」
「だから何が!?」
いい加減に私だけ(あとすずめちゃんも)話の筋が全く読めてなくって、とにもかくにも説明を求めた。
「えー、まあ要するにね。剣道部内でまことしやかに囁かれている噂があるワケ」
「なづなちゃんに勝負料理を作って貰うとー、試合でいい結果が出せるっていう願掛け? ジンクス? みたいなー?」
何それ、初耳なんだけど。
「え、すずめちゃん、知ってた?」
「小耳に挟んだー? くらいならー?」
「挟むことあるんだ」
そういうすずめちゃんも、又聞きしたくらいのふわっとした反応だった。
これはなんというか……噂と言っても本当に一部の噂っぽいね。
あと、晴海さんの口調がちょっと移ってるし。
「ほら、部長と副部長の勝負の時に、部長に差し入れしたって言うじゃない? 鈴奈先輩も最近調子いいし、特製カツサンドで新人戦も何年振りかの優勝! なづなちゃん、絶対何か力持ってるよ! なづな大明神だよ!」
「いやいやいや、それは選手のみんなが頑張ったからでしょ!?」
普段は
その必死さに圧倒されそうになるところを、私はどうにか理性で押し返した。
「た、確かに……試合で頑張って欲しいなって気持ちはいつも込めてるけど、料理を食べたからっていい結果を出せるなんて、あり得ないでしょ」
「そうだよー。なづなちゃんは、いつも一生懸命ご飯作ってるだけだよー」
すずめちゃんの援護射撃がありがたいけど、「でもー!」と、晴海さんが手刀交じりに話しに割って入った。
「それは、そうかもしれないけどさー。あたしたちにとっても死活問題なわけ。高校に入って初めての公式戦なわけだし、いい結果出しておきたいじゃん?」
「そうそう! もちろん、私たちも毎日の練習頑張ってるよ。努力してるつもりだよ。だからこそ、眉唾の噂でも、単なる願掛けでも、やれることは全部やっておきたいんワケ。ほら、入試の前には初詣に熱が入るじゃん? そういう感じで」
「だったら、神社にお祈りしたほうがよっぽど効果あるんじゃ……」
「顔も知らない神様よりも、なづなちゃんの方が信用できるよぉ~!」
それは流石に神様に失礼だと思うよ、星来さん。
とは言えこの三人、この様子じゃテコでも動かないよ、どうしよう。
「私の料理にそんな力はないよ。でも、ご飯のリクエストを貰える分には、参考にできてありがたい……かな?」
毎日ご飯を作るにも、レパートリーに限界がある。既に何度となく、同じメニューを繰り返したりしているし……いっそ食べたいものを言ってくれるなら、献立の参考になってこちらもありがたいかも。
「おお、さすがなづな大明神!」
「大明神~!」
「大明神様~!」
三人は、それぞれ改めて私のことを拝み倒してから、満足した顔で部屋に戻っていった。
残ったすずめちゃんが、さっきとは違う意味で心配そうに、私の顔を覗き込む。
「なづなちゃん、大丈夫?」
「ううん……だいじょばないかも」
頑張って美味しいご飯は作るけど、それで結果が出せなくても私のせいにだけはしないで欲しい……な。