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第32話 料理人の顔 ~麻婆豆腐~

 正直、ずっと違和感はあった。

 でも、目に見えて発症することも、それによる確証も無かったから見て見ぬふりをしていた。


 あの悪癖が、出てきてしまっている。


 どうして?

 相変わらず炊事場には誰も立ち入らせていないし、環境は何ひとつ変わっていないのに。


 いいや、原因は分かり切っている。

 この間の秋休みに、実家に帰っていたころのせいだ。

 瀬李部長が家に訪れて。

 もちろん、彼女に悪気があったわけでもなく、むしろ好意的に――昔を懐かしんで訪れてくれたのだということは、私にも分かる。


 だけど、そのせいでずっと記憶の奥底に押し込めていたもの、を、思い出してしまった。

 以来、料理を作るたびに部長の顔が脳裏に浮かぶ。


 剣道部で再開した、凛々しくも後輩想いの顔。

 私が忘れていたものを、忘れずに今日この日まで運んできた、瀬李部長。


 記憶の中の幼い顔。

 私が初めて上手にできた親子丼を、嬉しそうに食べてくれた、西川さん家の瀬李ちゃん。


 かつて、部長にその話を聞いた時、もしや? と思ったことはあった。

 しかし、確信を得ることも、いっそ本人に追及することもしなかったのは、やっぱり私自身が昔のことを忘れようとしていたからだ。


 でも、思い出してしまった。

 それからというもの、どうにも料理に手ごたえが無い。

 癖が出ている自覚はないにしろ、ほんの僅かな違和感が浸食する。


 思っていた味に決まらない。

 思っていた火入れにならない。


 料理を作ると失敗してしまう。

 だから、原因は明らかだった。

 私は、


 昨日の大失敗を経て、いよいよ私は、ありのままの現実を受け入れるしかなかった。

 それでも、私は剣道部のマネージャーだ。

 料理人だ。

 寮生のみんなのために、料理は作らなければならない。


 ひとまず今日の朝食は、ベーコンエッグとシーチキンサラダでお茶を濁した。

 目玉焼きなら焼きムラがあっても許されるし、「好みの固さのを取ってください」で済む。

 何より、味付けもそれぞれお好みだ。

 醤油派、塩胡椒派、ソース派、ケチャップ派…etc

 それぞれの食べ方があるから、カウンターに調味料とドレッシングを置いて、あとはご自由に――それで、どうにか乗り切ることができた。


 だが、そんなのはまさしく子供騙しだ。

 そう何度も使える手じゃない。


 どうにかしなきゃ。

 手を打たなきゃ。


 絶えず、頭の中で考え続けていた結果、ついに私は、炊事場で何もできずにただ立っていることしかできなくなっていた。

 いつの間に陽が落ちていたんだろう?

 秋になって、ずいぶん日の入りが早くなった。

 つい先ほどには、痛いくらいに西日が差し込んでいた部屋の中も、いつの間にか薄暗い夜の帳に包まれていた。


 まずい。

 もう、みんなが稽古を終えて帰ってくる。

 でも料理に手がつかない。

 失敗が怖い。

 美味しくないものを食べさせるのが怖い。

 不味いと言われるのが怖い。

 ますます、身体は動かなくなっていく。


「なづなちゃん?」


 声がして、びくりと肩が震えた。

 恐る恐る振り返ると、すずめちゃんがキョトンとした表情で入り口のところに立っていた。


「どうしたの、真っ暗だよ?」


 彼女が、手探りで証明のスイッチを探しているのが分かった。

 点けないで――思わずそう叫ぼうとしたけれど、声すらも出ない。

 やがて蛍光灯に火が灯って、まばゆい光に顔をしかめる。


 ほとんど同時に、すずめちゃんがぎょっと驚いた顔をして、大慌てて中に飛び込んできた。


「ちょっと、どうしたの? すごい、ひどい顔してる……!」


 彼女の言うがどんなのか、鏡もないこの場所では分からなかったけど、あんな青ざめた顔をさせてしまうくらいに有様をしていたんだろう。

 それが分かった瞬間に、自責の念がどっと胸から込み上げてきて、涙の粒になって溢れた。


「ごめん……ごはん、まだできてない」

「そうじゃなくって! え……なに? どうしちゃったの!?」

「ごめん……ごめんね」


 美味しくないご飯を食べさせちゃったことも、そもそもご飯ができていないことも、こうして動けなくなってしまった自分も、心配掛けさせちゃったことも、恥ずかしさも、感謝も、全部ひっくるめて「ごめん」としか口にすることができない。

 すずめちゃんは、そんな私の背中をさすりながら、慌てて辺りを見渡す。

 広がっているのは、手つかずで綺麗なままの調理場しかなくって、「う~、あ~」と困ったようなうめき声が頭上から零れた。


 やがて、ガタガタと寮の玄関先の方から大勢の人がやってくる気配がする。

 ふたり同時にはっと顔を上げて、それからすずめちゃんはもう一度、私のことを見た。


「わかった! とりあえずなづなちゃん、何できる?」

「え……?」

「じゃあ、お米! お米、炊ける?」


 何を言われているのかも良く分かっていなかったけど、私はなけなしの自我で頷く。


「うん、じゃあお願い。あとは、任せて!」

「任せて……って?」

「忘れちゃった? 私だって、町中華の看板娘なんだから」


 水道でバシャバシャと手を洗ったすずめちゃんが、振り返って笑顔をうかべた。

 その後ろ姿がどうしてか、お父さんと重なって見えたような気がした。


 すずめちゃんは、業務用冷蔵庫を開けると、うんうん唸りながら中を物色する。

 すぐにいくつかの食材を調理台の上にポイポイと放って行って、最後に調味料棚を漁る。


「ある~、良かった! なづなちゃん、たまに中華も作るから、あると思ったんだよね」

「豆板醤……? 何作るの?」

「中華定食の定番メニュー――麻婆豆腐!」


 言いながら、すずめちゃんは合宿でも使った大きな中華鍋を業務用コンロにかけた。

 てきぱきと準備にとりかかる彼女に勇気を貰った気になって、私も溢れていた涙を強引に拭って、お米を炊く準備を始める。


「まずは油で、ショウガとニンニク、あと刻んだ長ネギを炒めます。熱すぎると香りが飛んじゃうから、ここは弱火で油煮にするぐらいのつもりで」


 さっそく、部屋の中に香味野菜の香ばしくもスパイシーな匂いがたちこめる。

 途端に、グゥとお腹が小さく鳴った。

 慌ててお腹を押さえると、すずめちゃんが笑う。


「お腹減ったねー。すぐできるからね」

「……うん」


 屈託のない笑顔につられて、自分の口からもつい笑みがこぼれた。

 一度笑えば、ふっと心が軽くなる。

 さっきまでの暗い部屋の中みたいに狭まっていた視界が、少しずつ開けていくのを感じる。


「油にスパイスの香りが移ったら、次はひき肉! 麻婆豆腐のお肉はね、具じゃなくて出汁なの。油と水分が抜けきって、ポロッポロのカラッカラになるまで、ここはしっかりと火を通しますっ」


 油の中で、豚ひき肉が躍る。

 このジュウジュウを通り越した五月雨のような音、そしてお肉が焦げていく再びの香り。

 中華料理は、なによりもこれがズルい。

 個人的に、厨房で作ったものを出してくれる高級中華よりも、目の前でライブキッチンのように作ってくれる町中華が好きな理由が、ここにある。


「お肉が炒め終わったら、いよいよ豆板トウバン醤! 豆鼓トウチ醤――はないから、お味噌で代用っ! 紹興酒――も無いから味醂みりん! 鶏ガラスープの素! お醤油と砂糖を少々! これで、油が浮いてくるまでしっかりと炒めますっ」


 各種のジャンが投入されると、匂いが一気に麻婆豆腐のそれになる。

 味噌が焦げる甘くて香ばしい香りの中に、ピリッとスパイシーな唐辛子の刺激が鼻孔をくすぐる。


「最後に豆腐と水溶き片栗粉を入れて――ちょっとの間、煮込みます! 最後に煮込むのが、美味しい麻婆豆腐のコツなんだよね~」

「へぇ……が固まり過ぎないように、最後はさっと終わらせたほうが良いと思ってた」

「ここで煮込むと、タレと油が分離するんだよね。その油が、旨味と香りを逃がさない蓋の代わりになってくれるの」

「なるほど」

「油が浮いてきたら、仕上げに山椒をたーっぷり振って――完成っ! 黒石家の麻婆豆腐~寮の調味料仕立て~!」


 お、美味しそう……すずめちゃんの言う通り、油の膜が張られた豆腐が、まるで水晶みたいに輝いている。


「はい、お味見どうぞ~」

「う……いただきます」


 スプーン一杯ぶんの麻婆豆腐を手渡されて、私は欲望に抗えないまま、ぱくりと口に含んだ。

 真っ先に口の中に広がっていく、コク旨の醤の味と香り。

 ほろほろほどける豆腐に、カラカラのジャーキーのようになるまで炒めたお肉が、噛めば噛むだけ中に閉じ込めた旨味を解放する。


 やがて、口の中いっぱいに広がっていく突き刺すような唐辛子の辛味。

 舌の上を駆け上る、ピリリとした山椒。

 マーラー――一騎当千を誇る四川の双璧が、口の中で激戦を繰り広げる。


 これは、ご飯が欲しい……けど、まだ炊けてない!

 泣く泣く飲み込むと、至福の吐息と一緒に、涼し気な汗が額を伝う。


「美味しい! めちゃくちゃ美味しいよ、すずめちゃん!」

「良かった~。久しぶりだから、実は、ちょっと心配だったんだ」

「ううん、本当に――」


 どうしてこんなことになったのか、その原因を思い返すと言葉を飲んでしまう。

 だけど、改めて謝るより先に伝えなきゃいけないことがある気がして、私はもう一度すずめちゃんに向き直って、精いっぱいの笑顔を浮かべる。


「ありがとう」

「どーいたしまして」


 笑い返してくれた彼女は、ひと仕事終えて満足げな料理人の顔をしていた。

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