すずめちゃんのおかげで、無事にその日の夕食を乗り越えることができた。
本当に、感謝してもしきれない。
後片付けを終えた後、私は、彼女を自分の部屋へ招く。
ちゃんとお礼がしたかったのと、あそこまでしてもらって何の説明もないのは、不誠実だと思ったからだ。
「お茶と……お菓子は、ポッキーくらいならあるけど」
「いいよ、いいよ」
遠慮がちに断るすずめちゃんに、仕方なくお茶だけを提供する。
それから、何をどう話したらいいものか、気まずい沈黙が部屋に流れた。
「想像はしてたけど、それよりもずっと大変だったな」
すると、ぽつんと思い出したようにすずめちゃんが口を開く。
「え? 何が?」
「みんなのお夕飯作るの。だって、十数人分だよ? 家でお店のお手伝いしてた時も、料理を任されることはよくあったけど、そんなに沢山一気に作るって経験はなかったから」
「その割には、慣れた感じだったよ」
「間に合え~! って漫画の主人公になったつもりで、乗り切ったよ!」
得意げに語る彼女に、思わず笑みがこぼれた。
思えば、この子のこういうところには知らずと救われてることが多い気がする。
何事にも全力で、とにかく真っすぐなんだ。
弱音も吐かないし、かといって妥協もしない。
現にこうして、部活を終えてヘトヘトなのに寮生みんなのご飯を作り、それでもこれから食後のランニングにでも行こうかって勢いで、ケロッと笑っている。
そのバイタリティこそが、彼女の最大の武器なのかもしれないね。
「あのね、すずめちゃんはもう知ってるはずだけど……私の
だから、切り出せた。
まっすぐに助けてくれた彼女だからこそ、こちらもまっすぐに、言葉を濁す意味なんて無いと思った。
「うん。ご飯を作る相手を意識しちゃうと、上手に作れないっていう」
「そう。最近、それが寮のご飯を作る時にも、出てきちゃってて」
「えー?」
すずめちゃんが、驚いたように目を丸くする。
「あ、じゃあ、この間のしょっぱかった事件って」
「うん、そのせい」
「そーなんだー。あれ、でも、ずっと大丈夫だったよね? どうしていきなり?」
「それが……」
私は、秋休みに瀬李部長が実家に遊びに来てくれたことを話した。
静かに聞いてくれていたすずめちゃんは、やがて目をぱちくりさせて、首をかしげる。
「それがどうして、癖に繋がっちゃうの?」
「実は……って、これ、私もついこの間まで忘れてたんだけどね。瀬李部長とその家族が昔この辺に住んでて、ウチの常連だったんだ」
「そーなんだー!」
「部長も、まだこんなちっちゃかったから、全然気づかなかったし、もう忘れてたんだ。私があの人にしちゃったことだけは、ずっと覚えてて」
それは、私の中で最も忌むべき記憶。
西川一家が、ウチのお店の常連になったのは、本当に偶然だった。
私は、そうなるまで部長と一切面識が無かったし、もちろん友達でも何でもない。
そもそも、その頃の私と言えば、ようやく
いろんな料理に挑戦して。沢山失敗して。
悔しいけど、それはそれで楽しくて。
上手にできたらめいいっぱい喜んで、両親にも褒めて貰って。
そんな成功体験を積み重ねていたころ。
彼女は――瀬李部長、いや
きっかけは、いつか部長の口から聞いた親子丼だ。
たまたまだけど、初めてお父さんにも引けを取らない親子丼ができて、これ見よがしにみんなに見せびらかして試食してもらっていたあの時に、セリちゃんはお店にいた。
私の作った親子丼を、美味しそうに頬張ってくれた、細くてちっちゃくて頼りなさそうな女の子。
思えば、あの日が初めて、西川親子がウチのお店を訪れた日だったのかもしれない。
それからというもの、彼女たちはちょくちょくお店に来てくれる、常連さんになった。
私は、彼女が訪れるたびに「今日の練習料理」を振る舞った。
練習とは言っても、私は一端に料理人のつもりになっていたので、失敗したものをお客さんに出したりはしない。
お父さんにも見せて、大丈夫だとお墨付きを貰ったものだけ提供する、「今日あるかどうかは、その時にならないとわからない、秘密の裏メニュー」として、昔からよくしてくれる常連さんをはじめ、ちょっとした名物のようになっていたのもその頃だ。
自分で言うのもなんだけど、常連さんからしたら
私も、自分の料理でお客さんが喜んでくれるのは嬉しいので、毎日頑張っていた。
セリちゃんに振る舞っていたのもその延長みたいなものだけど、心のどこかでは同年代の彼女相手に「私は、こんなことできちゃうんだよ」って自慢するような気持が無かったわけではない。
喜んでくれているのなら、それはそれで子供心ながらにWin-Winだったと思う。
ある日、西川一家がいつものように晩御飯を食べにお店を訪れた時、セリちゃんが妙に浮かない顔で沈んでいるのが見えた。
話を聞くと、明日、通っているスポーツクラブの大会があるのだと言う。
初めて選手として出場するので、楽しみでもあるけど、それ以上に心配で心配で、落ち着かないそう。
それを聞いた私は、常連さんで、友達で、当時は私の方がお姉さんぶっていたのもあって、なんとか元気づけてあげたいと思って料理を振る舞った。
これもまた余計な気遣いというか、いざ作ったにしても、お客さんに出すうえでお父さんに首を横に振られたら結局は食べさせてあげられないので、こっそりと。自分で食べる「まかない」のていで作って。
出したのは親子丼だ。
彼女に初めて食べさせたもので、当時、私が一番得意になれた料理。
絶対に失敗はない。
見た目も綺麗に、ぷるんと半熟卵が震える、おいしそうな親子丼ができた。
私は、トイレに行く振りをしてセリちゃんを店の外に呼び出すと、親子丼を振る舞った。
一緒に「明日頑張れ」ってエールを添えて。
セリちゃんも、なんて返事をしたかは覚えてないけど、笑顔で頷いてくれたような気がする。
もちろん、親子丼も美味しそうに、全部綺麗に平らげてくれた。
良いことをした気分になって、ああ私、今、料理人やってるなって――余計に得意になったりしたものだった。
しかし翌日、私は、両親のなんてことはない世間話の中でこんな話を聞いた。
「セリちゃん、体調を崩しちゃって今日の大会に出られないんだって」
せっかく料理も振る舞って応援したっていうのに、なんて運が無い……可哀そうな他人事みたいに思っていたけど、それから一日、二日と日が経つにつれて、雲行きが怪しくなった。
念のため病院に行ったセリちゃんの体調不良の原因が、風邪とかそういうのではなく、食当たり――ようは、食中毒だったらしいと言うのだ。
原因は、あの日彼女に食べさせた親子丼だった。
半熟の卵とじを綺麗に作るのに気を遣いすぎて、具の鶏もも肉に十分に火が通っていなかったのだ。
これが、ご家庭の食卓なら、それこそ「運が悪かったね」「今度からちゃんと火を通そうね」で終る話だが、お店で提供したものとなれば話が変わる。
すぐに色んなところ――当時の私は知る余地は無かったが、たぶん保健所とか、そういうところ――から連絡が来て、実家のお店は滅菌消毒対応という名目で三日間の営業停止が言い渡された。
両親は、私を責めることはしなかったが、改めて「誰かに料理を振る舞うこと」について、料理人としての根底に置くべき心構えについて、じっくりと説き込まれた。
私は、とっくにいろんなことが抱えきれなくなって、どんな言葉にも「うん」と頷くことしかできずに、泣きながらそれを聞いていた。
営業停止が解けてから、すぐに常連さんは、お店に戻って来た。
「災難だったね~」
なんて笑い話にしてくれて、両親も「いや~」なんて営業スマイルで応対したりしたものだけど、直接の原因である私の気が晴れることはない。
いや、気を晴らすためには、やらなきゃいけないことがあった。
セリちゃんに謝る。
大事な試合を台無しにして、ごめんねって。
それができて初めて、私はいちからやり直せるんだって、信じていた。
でも、それっきりセリちゃんがウチのお店を訪れることはなかった。
今にして思えば、たぶんあの後すぐに街の方へ引っ越すことになってしまったんだろう。
だけど、事情なんて子供の私には推し量ることなんてできるわけがなくて、「嫌われた」「お店のお客さんを失った」って、そんなことばかりが胸の内に蓄積していく。
「それからなんだ、誰かのために料理を作ろうとすると、失敗するようになっちゃったの」
ひとしきりを話し終えて、私は、締めくくるように口にする。
私の出した料理が、誰かの明日をめちゃくちゃにした。
営業停止をなんてことはないって許してくれた両親も、夜になれば食卓で向かい合って、これからのことを真面目な顔で話し合っていた。
子供の私には、どうしようもない。
何もできることはない。
残ったのは、調理場は常に綺麗にしなきゃいけないっていう強い衛生観念と、ひとに出す料理に下手を打てないっていう強迫観念。
その結果が、例の
すずめちゃんは、うんうんと頷きながら、私の話を聞いてくれた。
それから「う~ん」と、首をひねって唸る。
「だけど……やっぱり、今まではうまく行ってたんだよね」
「うん。調理場にひとりにして貰って、食べさせる相手のことを頭から考えないようにしてたから」
でも――
「この寮で生活を初めて、剣道部のみんなと触れ合って、ちょっとずつだけど
私がこれから、料理人として生きて行こうと思ったら、いつか克服しなきゃいけないことだ。
「みんなのためにご飯を作る毎日で、自分のダメなとこと向き合えてたんじゃないかって、思ってた。でも、違った。瀬李部長がセリちゃんだって分かって、それからずっと意識しちゃってる。今作ってるこの料理は、セリちゃんに食べさせる料理なんだって」
だから、失敗できない。
食中毒は当然、他のどんな失敗だって、二度とは。
毎日、みんながどれほど辛い思いをして稽古をして、剣道に打ち込んでいるかを知っているから、なおさら――
「ごめんね。いきなりこんな話をしても、困っちゃうよね」
ふと我に返って、私は笑いながらすずめちゃんに謝った。
だけどすずめちゃんは、うんうん唸るように首を傾げたままで、やがて何か思いついた様子でポンと手を叩いた。
「じゃあ、とりあえず謝ってみたらいいんじゃないかな?」
「え?」
「ずっとつかえてるなら、謝ろうよ。瀬李部長――じゃなくて、そのセリちゃんに」
話の流れが見えない私に、すずめちゃんは、そのひたすらにまっすぐな瞳を向けて笑う。
その無邪気な笑みは、もうとっくに忘れていた、ただただ料理が楽しくて仕方が無かった子供のころの自分のそれに、どこか似ているような気がした。