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第34話 今日から…

 それからというもの、私は妙にソワソワ・ドキドキしながら、部屋を出て行ったすずめちゃんが帰ってくるのを待っていた。

 何かを待つためにこんなに緊張するのは、入試の面接の時以来だ。

 自分の部屋なのに、クッションも敷かずに正座なんかしちゃったりして。

 古くなった畳の目が肌にチクチク痛かったけど、気にしている余裕もなかった。


「おまたせ!」


 時間にしたら、ほんの五分か十分の出来事が、三〇分以上の空白に感じられた。

 部屋に帰って来たすずめちゃんの後ろから、瀬李部長が顔を覗かせる。


「お邪魔します」

「は……はい、どうぞ」


 いつものスッキリした調子の部長に対して、私の返事はどこかぎこちない。

 仕方がない。

 だって気まずいもの。


 そもそも、すずめちゃんは何て言って彼女をここまで連れて来たんだろう?

 部長の涼しい顔を見れば、変なことは言っていないような気はするけど……いや!


 私は、かぶりを振って、自分の根性を叩きなおす。

 ずっとこうだったから、何も解決しなかったんじゃないか。

 せっかく、すずめちゃんが引き合わせてくれたチャンスなんだ。


 思えば、私を部長に紹介してくれたのもすずめちゃんだった。

 はじめから、彼女のおかげで、こうやって過去のトラウマと向き合うチャンスが訪れた。

 あとは、私が向き合う勇気を示すだけだ。


「――なるほど、それで最近、妙にぎこちなかったんだな」


 そうして、私は事の次第をすべて部長に打ち明けた。

 その中には、ついこの間まで、瀬李部長のことをセリちゃんだと気づかなかったこと、そもそも忘れてしまっていたことも含まれる。


「なんとなくそんな気はしていたよ。まあ、私もずいぶん変わったしね」

「ですよね。あの時は、そもそも歳とか聞いて無かったけど……私よりも小っちゃかったので、勝手に年下だと思ってました」


 だからこそお姉ちゃん気というか、面倒見てあげなきゃって気持ちがあったのも否定できない。

 話が終わって瀬李部長は、まさしく襟を正すように背筋を伸ばして、静かに頭を下げる。


「すまなかった。ずっと、なづなを苦しめてしまっていたようで」


 まさか、あっちから謝れるだなんて想像もしていなくて、私は慌てて首を横に振る。


「い、いやいや、謝らなきゃいけないのは私の方で……というか、今更だけど、本当に。あの時はごめんなさい。料理人としても……その、友達としても、軽率な行動でした」


 ほとんど返す言葉で、私も頭を下げる。

 ずっと、こうしなきゃいけなかった。

 したかった。

 私はやっと、あの日のセリちゃんにも、私自身にも、そして家族にも、心からの謝罪を送ることができた。


「ただ、ひとつだけ訂正して欲しいことがある」


 顔を上げると、部長が優しく笑って私を見ていた。


「私は、なづなのことを、ひとつも恨んじゃいないよ。お腹を壊したことも、それで試合に出れなかったことも」

「でも、それは」

「本当のことだ。実は、体調を崩して――まあ、それ自体は辛くて苦しかったけど、同じぐらいホッとした気持ちもあった」

「ホッとする……?」


 部長は、遠い過去を思い出すように宙を見上げる。


「当時の私は、身体も小さかったから、スポーツ全般が得意じゃなかった。それでも身体を動かしていればということで、父の勧めで剣道教室に通っていたんだ。父は、警察官でツテがあったからね」

「ああ、思い出した。あの時、部長の家って町の駐在さんだったんだ」

「そう。まあ、剣道を始めたのはいいが、子供だからこそ体格差ってのはそのまま才能に繋がるところが大きくて。クラブでもずっと、弱いほうだった」

「ええ! 部長が!?」


 すずめちゃんが、素っ頓狂な声で目を丸くする。

 まあ、今の姿からは想像ができないよね。

 私も、鈴奈先輩から「昔はそんなに強くなかった」って聞いた時は、驚いたよ。


「だから、大会に出るのも正直自信が無かったっていうか、怖かったんだ。行きたくないと思ってた。そんなナイーブな心境を、両親は心配してくれたんだろう。当時、気に入って良くせがんでいた、あのお店に連れてってくれたんだ」


 それであの日、浮かない顔をしていたんだ。

 ご両親も元気づけるために……そう考えたら、なおさら申し訳なさが募る。


「言っただろ、ホッとしたって」


 私の心境を察してか、部長はフォローする用に付け加える。


「本当に、安心したんだ。これで試合に出なくて済むって。大義名分を得たって」

「それは、その……」


 こっちとしても、なんとコメントしたものか困る。

 いくら良かったと言ってくれても、苦しい目に遭わせてしまったのは変わらないわけで。

 だから、黙ることしかできなかった。


「そのあと、あまり時間を置かずに父の転属が決まって、町を引っ越すことになった。最後にもう一回くらいお店に行きたかったけど、いろいろバタバタしてしまって、その余裕はなかった。そのせいでなづなの心にを残してしまったなら、謝っても許されることじゃない」


 部長は、改まって頭を下げた。


「引っ越してから、やっと成長期のようなものが始まって、身体も大きくなり始めた。そうは言っても、同学年の中ではまだまだ小さい方だったが。身体ができて、剣道の方も少しずつ結果を出せるようになった。ただ……もし私が、なづなに出会っていなかったら、おそらくあの引っ越しの場面で、剣道を辞めていたと思う」

「……え?」

「はじめて、なづなが親子丼を食べさせてくれた時のこと、覚えてるか? 私は、覚えてる」


 私も覚えてる……というか、思い出した。

 子供心には得意げな、でも大人になって思い返すと恥ずかしい、幼い日の思い出。


「あの時、私は本当に関心したんだ。自分と同じくらいの歳の子が、大人が作ったような立派で美味しい料理を作ったってことに」

「や、やめてください。若気の至りって言うか……ちょっと、イキってた頃の記憶なので」

「ははっ、その堂々としたところも、当時の私からしたら羨ましかったんだろうね。尊敬してた。ご両親の話では、もっと小さい頃からずっと、料理の真似事をしてたって言うじゃないか」

の延長ですけどね。実家が定食屋なので、料理は遊びで、生活の一部だったので」

「そうやって、ひとつのことにひたむきに頑張っているなづなが、まぶしくて、カッコよかった。だから私も、ひとつくらいそうやって胸を張れること――ようは、イキれることを持ちたいなって思ったんだ」


 言いながら、部長は悪戯っぽく笑った。

 急な褒め倒しに、私はすっかり彼女の顔を見れなくなって、唇をモゴモゴさせながら自分の膝小僧を見つめる。


「だから、剣道を続けた。他に習い事もしていなかったからね。今私がこうやって剣道を続けて、左沢産業高等学校という強豪校で部長を務めて、試合で結果を出せているのも、全部なづなと出会ったおかげなんだ。つまり――」


 部長は、私の反応を待つように言葉を切った。

 いや、正しくは、私が顔を上げるのを待っていたんだろう。

 突然の静寂にちらりと向けた視線を、真っすぐに見つめ返して言う。


「謝る以上に、お礼を言わなきゃいけない。ありがとう。それを、ずっと言いたかった」


 彼女のことばに、じんわりと胸が熱くなった。

 涙があふれるときのそれじゃない。

 全身を心地よく満たしていくのは、たぶん、部長の言葉に負けないくらいの感謝だ。


「私こそ……ありがとうございます。私を料理人にしてくれたのは瀬李部長で、あの日、お店に通ってくれたセリちゃんだから。そうじゃなきゃ、私こそ――」


 今、ここには居なかったかもしれない。

 ただ、その言葉を伝える前に、ついに溢れてしまった嗚咽と涙が、私の目と口を塞いでしまった。

 だけど、一番伝えたかったことは、伝えられた気がする。


 今日からようやく、いやもう一度、歩き出せる気がした。

 あの日から、ずっと遠慮しがちに胸を張って口にできなかった、料理人という夢へ向かって。

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