行ってきまーす! 家の中に向かって告げた。手にヘアピンを握ったまま、家を飛び出す。彼女の家から数歩歩いたところで彼女を見つけ、彼女の名前を呼んだ。
「
花恋ちゃんは、まだ眠気が完全に覚めきってない顔をしている。さては昨日、遅くまで起きていたな? そうでなかったら低血圧で朝弱いだけなのかも。目を凝らして私を見据えてくる。口をつぐんで、目つきも悪くなってる。
「よかったぁ。間に合って。ガッコ、途中まで一緒に行こ〜」
なにかを言いかけ、草を食むように口をもごもごとさせると、小さく頷いた。
少し複雑に入り組んでいて、どこか迷路めいたような住宅地を抜ける少し手前の道は車が一台通れるほどの狭い道があって、学校に行く時とか、休みの日にしず子たちとどこかへ遊びに出かける時はいつもこの道を通っていく。
「どう? こっちでの生活は、もう慣れた?」
横を歩く花恋ちゃんの顔を覗き込むようにして聞く。花恋ちゃんはこくん、と小さく頷く。
「学校は? もう友だちはできた? だいじょぶそ?」
また、こくんと小さく頷いた。
朝ごはん食べた? サザンは好き? これらの問いにも、小さく頷いた。今度は切れかけの電池みたいに、今までよりもさらに動きが小さくなっていた。
「その制服、かっこかわだね!」
かっこかわ。かっこよくてかわいい、の略が花恋ちゃんには伝わらなかったみたいで、この問いには今までと打って変わって、首を傾げる反応を見せた。
「花恋ちゃんの通ってる学校、たしか
花恋ちゃんはリュックのショルダー部分を握りしめる。警戒されているのか、やはり彼女は口を開いてくれない。いつの間にか狭い通り道を抜けて、広い敷地に出ていた。
「いいな〜。制服ネクタイ、かっこいいな〜。でも今の制服のリボンも気に入ってるんだけどね。みて、可愛いでしょ、リボンも」
「うん。そうだね。ちょうちょみたいだね」
「あー! やっとしゃべってくれたね!」
私がそう言うと花恋ちゃんは恥ずかしそうに俯いてしまった。大通りに出て、横断歩道を渡る。子どもやお年寄りにそうする時のように、手旗信号で彼女を保護誘導するように渡らせる。彼女は俯いたまま、恥ずかしそうに渡った。それからは特に会話もなく、駅への道を歩いていく。
「あのさ、花恋ちゃん」
少しだけ深呼吸してから言った。
「花恋ちゃんって何してる時が一番楽しい? 花恋ちゃんの好きなことってなに? 好きな食べ物とか!」
ぐっと息をのんだかと思うと、急にピタッと立ち止まる。彼女よりも半歩ほど進んでた私も彼女に合わせて足を止める。
「好きな食べ物、ヨーグルトと豆乳かな」
「へー。ヨーグルトと豆乳! ちょっと健康的な物が好きなんだね!」
「好きなことは、本かな」
「本ってあの本? 英語にすると、ブック。ビー、オー、オー、ケー、の本だよね?」
彼女は歩き出す。私もつられて、歩く。
「うん。本とか小説とか、読んでることが多い……かも」
「へー。そっか本かぁ。小説って、私あんまり読んだことないなぁ」
私たちの前を野良猫が通りがかってきた。私たちの視線が野良猫に向いた。
「あとは……」
花恋ちゃんは野良猫の側まで行くと、しゃがみこんで、ちっちっちっと野良猫を呼び寄せる音を出す。驚いた野良猫は走り去ってしまった。
「あとは、たぶん動物も好きなんだね」
「うん。子どものころ、拾ってきた犬飼ってたんだよ」
「なんて犬? どんな犬だったの?」
「なんて犬だったかな……。大きい犬だったよ」
「大きい犬を拾ってきたの? なんでまた大きい犬を拾ってきて、飼おうと思ったの?」
「寂しそうにしてたから」
大きい野良の犬なんて、この日本にいるのか。という疑問が湧き上がってきた。
「確かに」
「はい?」
「あんまり本とか読んだことなさそう、だね。きみ」
「えっ、ああ。読んだことくらいありますぅー。だってほらさ、国語の授業とかで読むじゃんか。お腹膨らませるカエルのお母さんのお話とかあったじゃん。あとあの、あの人! なんて言ったかな。とにかく超有名な作家さんの、トロッコってお話も授業でやったことあるし」
「超有名な作家さんって、芥川龍之介のこと?」
「そうだ! その人!」
「羅生門、鼻」
「鼻が大きいおじさんのお話もやった!」
昨日も通った、病院への道を通っていく。駅に続く通りの道に差し掛かっていた。
「花恋ちゃんの何かおすすめの小説とかあったら教えてよ」
「昨日読み終わった『
「かし! なにそれ! お菓子のお話!?」
「お菓子のお話じゃないよ。本が違法になった未来の世界で、本を燃やす仕事の……」
「あー! ストップ! ストップ! これから読む人にネタバレするの禁止!」
「これネタバレじゃなくて、あらすじだけど……」
彼女との話にすっかり夢中になっていたら、いつの間にか駅についていた。駅は相変わらず、多くの人が行き交っている。これから仕事に行く人も、私たちと同じように学校に行く人もいるんだろう。仕事終わりで、これから帰る人もいるかもしれない。今日が休みで遊びに行く人もいるのかな。
「私は待ち合わせだけど、花恋ちゃんは電車だっけ。天女って上り?」
「上り。駅を二つ上ったところ」
「そっか。じゃ、ここまでだね」
「うん」
「今日はすごい楽しかった! またこうして一緒に駅まで行こうね!」
「うん。また」
「いつか一緒に遊びに行こうね!」
「うん。それは考えとく」
「考えとくとか、つれないことゆーなよー!」
駅に向かっていって雑踏の一つと化していく彼女の姿を見送った。彼女はもう電車に乗ってしまったかもしれないのに、私はボーッと駅の方を眺めていた。後ろから肩を二回叩かれるまで、ずっとそうしていた。
「よっ、柚月。待たせちった?」
「へい。待たせつかまつりました」
「そいつは結構なこって。てかなんかあった?」
「あった! あったんだよ! しず子、ちょっと相談のってくれる?」
「はい、そういうのは却下。おまえの相談にはもうのらないって昨日言ったよな」
「それは昨日の話じゃん! 今日は今日の相談ってことで相談のってよー」
「そんな都合のいい話があるか! それから、」
昨日は無事にカルボナーラ喉に詰まらせた?
そんなことを聞いてきた。喉に詰まらせて、しず子の元に化けて出てやれなかったのが残念でならなかったと答えた。