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8 顕現

その光景、女の子が屋上のフェンスによじ登り、その向こうに今にも飛び降りようとしているのが目に飛び込んだ瞬間、うちは全身を強張らせその場で固まってしまった。

ひきかえ、リョウの動きは素早かった。俺の知ったことじゃない、なんて突き放したこと言った割には。

と言うか、早すぎてうちの目にはまるで瞬間移動したかのように見えた。


赤錆びた金網のフェンスをよじ登り、今にも飛び降りようとしていたセーラー服姿の女の子――高校生ぐらいだろう、多分――の首根っこを引っつかみ、そのまま床へと叩きつけるようにして引きずり下ろす。


ぎゃああ、と聞くに堪えない酷い叫び声があがった。

お尻を強く打ち付けられ女子高生が悲鳴をあげたのだ。


ああ、かわいそ……。

とうちが同情する間もなく、


「騒ぐんじゃない」


女子高生の首ねっこを押さえつけたまま、短くリョウが言った。

口調が信じられないほど冷たい。うちの知っているリョウとはまるで別人みたいだった。


「俺達とここを出てもらうからな。その後は……」


「ちょ、ちょっと待ちぃな!」


慌ててうちは二人のもとに駆け寄っていた。

リョウの手から女子高生の身体を奪い取るようにして抱きしめる。


「そんな保護の仕方、あるかいな! 相手は女の子やろ! もっと優しく――」


したって、とうちが続けようとした時だった。

抱きしめていた女子高生が低い声で唸るのが聞こえた。


ハッと息を飲んだうちと顔をあげた女子高生の目が合う。

まともな精神状態じゃないのは一目でわかった。


次の瞬間、ガアッと獣みたいな叫び声をあげて飛びかかって来る女子高生。

体格的に劣るうちはなす術もなく、あっと言う間に押し倒されてしまう。


ゴン、と嫌な音を立ててうちは後頭部を床に打ち付けていた。

痛い、なんてもんじゃなかった。衝撃で目が、眼球が飛び出してしまうかと思った。


余りの激痛にうちが後頭部を押さえ、呻き声をあげていると――


「どうして! どうして邪魔をするの!? あと一息でライセサマと一つになれたのに! よくも! よくも……!」


ライセサマ?

何やそれ、と問い返す間もなく、女子高生は馬乗りになった女子高生が髪を振り乱して叫ぶ。

そして、うちの首に両手をかけて――女の子とは到底思えない力でギリギリと締めあげてくる。文字通り、鬼の表情で。


怖い。

純粋にうちはそう思った。


何らかの理由で精神的にも肉体的にもタガが外れているらしい。

非力なうちは抵抗を試みることもままならず、ただ絞殺されそうになっている。


全身から力が抜け、意識が遠のいてゆくのを覚えながらうちは自分の非力さを思い知った。かすれてゆく視界の中、西に沈んでゆく夕陽がやけにきれいだった。


ああ、これがうちのこの世の見納めか……。


うちがそう思った、その時だった。


トンと軽く肉を打つ音が響き―、糸が切れた操り人形のように全身を弛緩させた女子高生がダランとうちにのしかかって来る。


思いの外、女子高生は重たかった。


「まったく、はた迷惑な女だな……」


ため息をつきながらリョウが手刀を降ろす。どうやら当身で女子高生の意識を奪ったらしい。恐らく苦痛に感じる暇もなかっただろう。


「女相手に手をあげさせやがって。……胸糞の悪い」


「そ、それで……」


リョウに助け起こされ、うちは言った。


「その子、これからどうするん?」


「ふん縛ってその辺にでも転ばせとくか」


「えっ」


「……冗談だ」


うちとリョウは屋上を後にし、取り敢えず女子高生を一番近くの四階の客室へと運んだ。


埃だらけのマットレスの上に気絶している人を寝かせるのは気が引けたが、ドロドロの床に比べればまだマシだ。


「この子、夢ノ宮第三高校の生徒みたい。この制服、見覚えあるわ」


「……別にどこの誰だって構わない」


答えたリョウの声はうちよりも疲れているように聞こえた。


兎にも角にも、これでひと段落。取り敢えず、警察に通報しとこ。そう考え、うちはスマホを取り出す。


だけど――


「……あかんわ。アンテナ立ってない」


「山の中だからな。電波が通じにくいのかも」


「うち、もう一回屋上に出てみる。リョウは」


その子見といたってなと言い残し、うちが客室を出ようとした時。

低い呻き声をあげて女子高生が上半身を起こした。

ほんの数秒間、女子高生はボンヤリとした表情でうちらを眺めていたが、ふと我に返った表情になり—―叫び声をあげていた。


「あ、あんた達誰ッ!?」


怯え切った表情でベッドの端に身を寄せながら、女子高生はうちらを睨みつけて来る。


「こ、こんな真っ暗なとこに連れ込んで!? わ、私をどうするつもりッ!?」


女子高生の反応は当然と言えば当然かも知れない。

童ノ宮の神様のお陰でうちらは彼女の存在を事前に知っていたが、当の本人からすれば見知らぬ男女二人組に突然、取っ捕まえられただから。

飛び降り自殺を敢行しようとしていたのだから、まともな精神状態でないことは明らかだが、例えそうでなくても怖がられてしまうのも仕方がない。


とはいえ……。


「どうするって言われても、うちらは別に……」


「わ、わかった! あんた達誘拐犯ね! 言っておくけど私ン家にはお金なんてないんだからね!」


キンキンと耳朶に響くような金切り声で喚き散らかす女子高生。

次第にそれはヒートアップして行き、ただの罵声へと変わってゆく。


「このロクデナシッ! デクのボウ! チンチクリンッ!」


「わ、わかったわかった……。いったん、落ち着こ?」


女子高生をなだめようとうちは両手をかざしながら言った。


「取り敢えずお姉さんの名前、教えてくれへん?」


「はぁ!? 教えるわけないし!あんたこそ、誰!?」


そう言えば自己紹介もまだだった。


「うちは塚森キミカ。で、こっちは鳥羽リョウ」


交互に自分とリョウを指さし、うちは言った。


「童ノ宮って神社、知ってる? うちら、そこの氏子で――」


「知らない! 死んじゃえ!」


し、死んじゃえって……。

思わずうちは口をつぐんでいた。取り付くシマもないとはこういうことを言うのだろう。


女子高生に露骨に顔を背けられ、さすがに心が折れそうになる。

しかし、それでもコミュニケーションを続けようとうちが口を開きかけた時だった。


「名前なんか、今はどうでもいいだろう」


思わず、うちは声の主――リョウを振り返った。

女子高生もリョウを見ていた。いや、睨んでいた。刺すような鋭い視線で。


「さっき口走っていたよな、ライセサマって。……お前に憑いているモウジャは一体、どんなやつなんだ?」


モウジャ。幽霊、妖怪、怪異……。

その他、どう呼ぼうと自由だと思うけど、所謂この世ならざる者達を指してそう言う。

童ノ宮の神様が直々にうちに会いに来るなんて滅多にない事だから、もしかしたらと言う予感はあったけれど――やっぱり、今回の一件はモウジャ絡みだったらしい。


「違うし! ライセサマはモウジャじゃない!」


目の色を変え、これまでにないほど激しく反応する女子高生。


「ライセサマは、ライセサマは……! 神様なんだから!」


「あんた、知らないのか? 神様もモウジャも実際、大して違いはないぞ?」


ハラハラしているうちの隣でリョウが肩をすくめる。

その声色にほんの少し、意地の悪いものが上乗せされたような気がした。


「言っておくが連中にも連中の都合があって――よっぽどのことでもない限り、俺達人間の言うことなんかに応えちゃくれない。こっちはこっちで気を引き締めてかからなきゃ使い潰されてポイッ、だ」


「う、うるさい! いい加減なことばっかり言わないでよ!」


ヒステリックに叫び返す女子高生の顔が泣き顔に歪む。


「私のことなんか何にも知らないくせに! 私が毎日、どんな思いで生きてきたか知らないくせに――!」


いつしか女子高生は小さい子どものように泣きじゃくっていた。

それでも尚、まだ何か言おうとリョウは口を開きかけている。


「――もうええって」


素早くリョウの腕を取り、小声でうちは言った。


「それよりこの子、早く童ノ宮に連れてったらんと……」


リョウの言う通り、彼女が何者かに憑かれているのならば警察に保護してもらうだけでは足りない。きちんとした資格を有する専門家に処置してもらう必要がある。


例えば塚森レイジ――うちのお父さんみたいな人に。


ああだけど、とうちは頭が痛くなるのを覚える。

お父さんは今、家にいないんだった。

拡声器のような頭部と獣の胴体持つ怪異が山間部に出たとかで、山梨県までお勤めに出かけているからだ。

一筋縄ではいかない怪異らしく、最速で鎮めることができたとしても帰りは月末になるって言ってたっけ。


そうなると物忌をして、何とか持ちこたえるしかないのだが、果たして本人が協力してくれるかどうか……。


「どっか行ってよ! あんた達なんか大嫌いなんだから! 消えちまえッ!」


……無理やろうなぁ。


徹底的にまで拒絶され、無性に悲しい気持ちになる。思わず涙ぐみそうになった時だった。


ゴボゴボ、ゴボゴボという音が聞こえた。

水の中で何かがあぶくを立てるような音。

それは客室に備え付けられたバスルームから聞こえて来るようだった。


いや、だけど。

ここは主を失い、廃墟となって久しいラブホテルだ。

電気もガスも、そして当然、水だって通っているはずがない。


自然とそのバスルームの入口のドアに視線が集中。

うちとリョウはもちろん、つい数秒前まで泣きじゃくっていた女子高生までもが息を飲み、次に何が起きるかを見守っている。


ギッと嫌な音を立てて、ドアがわずかに開いた。


その隙間からこちらを覗いたのは魚類を思わせる、不自然なまでに巨大な異形の顔だった。

ただし、グッショリと濡れた全身は人間の女の裸体によく似ていて、鱗らしきものは見当たらず、まるで粘土のような質感の皮膚は青黒くかすんだ色に覆われていた。

ガラスボールのような眼球には一点の光もささない黒々とした瞳が見開かれ、腫れぼったく分厚い唇の下にはギザギザに尖った牙が幾重にも並んで生えていた。


うちはこのラブホテルの敷地に描かれた巨大な魚のラクガキを思い出していた。

あれは、ここがこの化け物の縄張りであることを主張するものだったらしい。


しばらくの間――。


うちらと異形はお互いに一声も発さず、ただ黙って見つめ合っていた。


そう言えばまだユカリにLINEの返事を返してなかったな。

何となく、うちはそう思い返していた。


何とも間の抜けた沈黙の後、血を吐くような絶叫を女子高生が喉からほとばしらせた。



悲鳴をあげた女子高生に応じるかのように――異形が鳴いた。


いや、泣いた。猫のヒステリックさと赤ん坊の悲壮さを掛け合わせて、二で割ったような声で。


――二ィヤァアアアアアアアアアアアアッ……!


うちの頭の中でパトランプのように危険信号が明滅する。

やばい。やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい……!


滝のように冷や汗を流しながらうちは思った。


このまま、ただ突っ立っていたら死ぬ。

間違いなく死ぬ。


頭ではそう理解していても、うちの身体は動かなかった。

というか、どう動けばいいのかわからない。怪異に接した時、どう振る舞えばいいかお父さんから何度も教えてもらっているのに、何一つ思い出せない。


蛇に見込まれた蛙。今のうちが正にそれだった。


と、の時だった。


風のような速さでうちのかたわらを駆け抜けーー、シャワールームから這い出そうとしてい

る異形に向かってリョウが突進する。


シュッ!

気合いの声とともに繰り出される鋭い前蹴り。

開きかけたドアの隙間から異形の魚のような頭部に綺麗に命中。


ぎゃぎゃっ……!


汚らしい、としか形容できない叫び声をあげて吹き飛ぶ異形。

リョウは隙を逃さず、その大柄な背中でドアを抑えつけていた。


ああ、そっか……。

一連の流れるようなリョウのモーションを凝視しながら、うちはどこか他人事のように思った。


強い人って言うのは、速い。

実際の動作だけじゃなく、物事に対する判断も。

考えるより先に動く、ということなのかも知れないがそれはそれで立派な生存能力だ。

引っ込み思案なうちにはない能力だが、かといって将棋やチェスのプレイヤーのように物事を理詰めで解決していけるタイプでもない。


うちに出来ることと言えば……。


「何やってる! ボンヤリしてないで――逃げろ、キミカ!」


身体でドアを押さえたまま、血を吐くような声でリョウが怒鳴った。


「コイツは俺が押さえとく!お前はその娘と山を降りろッ!」


その言葉にうちと女子高生は思わず互いに顔を見合わせていた。


女子高生の顔は真っ青で小刻みに震える唇は紫色に変わっている。

鏡がないから確かめようがないけれど、多分、うちも同じようなモンだったと思う。


リョウがまた怒鳴った。


「早く行けっ! そう長くは持たない!」


その言葉に弾かれーー、ひったくるようにしてうちは女子高生の手をつかみ、全力で走り出していた。


背後にリョウと異形が激しく争う物音を聞きながら。


廃墟を飛び出すと既に陽は沈み、あたりは真っ暗だった。うちらはしっかり手を繋いだまま、駐車したまま車の前を駆け抜けていた。


そのまま幹線道路に飛び出し、勾配のきつい斜面を文字通り滑るようにしてくだってゆく。


下手をすれば谷底に転落する可能性もあったが、道路をただ真っ直ぐに逃げ続ければいずれは捕まってしまうことは火を見るよりも明らかだった。


女子高生の手を引きずりながら闇の中を進んでいると、微かに水の流れる音が聞こえて来た。ひょっとしたら川が近いのかもしれない。


だとすれば麓までそんなに遠くない、ということになる。


走る速度をさらにあげようとした時――


「……ね、ねぇ。……お願い、ちょっと待って」


うちのすぐ後ろで悲痛な声。

ふり返ったうちに弱々しく哀願したのは女子高生だった。


「わ、私、さっきどこかに靴が片方、脱げちゃって爪が割れて痛くて……。お願いだから少し休ませて……」


うちは何も答えないまま、懐中電灯を点灯。

光の束が少し崖の上に投げかけられ――、闇に浮かび上がらせたのは白っぽい平屋の建物。


多分、コンビニか何か。

店内が真っ暗なことから経営中でないのは明らかだろう。


「……わかった。取り敢えず、あそこに身を隠そ」


懐中電灯を消し、女子高生を振り返った。


「そろそろ教えてや。……あんた、名前は?」


一拍の間を置いて――、


「……アキ子。米倉アキ子」


消え入りそうな声で女子高生が答えた。



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